二人の会話

第二部  二人の距離


その六

 暗く重苦しい時期が過ぎて、受験が終わった。滑り止めの私立校と、本命の公立と。自分の実力とあわよくばの運も試して、その結果、私は何とか二校とも受かることができた。
「先生、受かりましたっ」
 本命の合格発表のあと、中学に戻り職員室で報告する。
「よくやったな。で、他の生徒は?」
「一組の倉沢と、三組の佐々木君も受かりました」
 その報告に、それぞれの担任も拍手する。
 発表には怖くて一人で見に行ったけれど、掲示板の前で俊成君と佐々木君、二人に会った。お互いに受かった喜びと、これからよろしくねなんて挨拶して一旦別れたんだけれど、この様子だと二人は学校には戻ってないのかな。
 今日は公立の合格発表日で、そのため自由登校になっていた。報告はきちんとすることと言われていたけれど、電話で済ます生徒もいる。ちなみに圭吾は私立を受けて、早々に受かっていた。だから今日は登校せずに家にいるはず。早く会って圭吾にも報告したかったけれど、昨日熱っぽいって言っていた。風邪引いちゃったのかな。ちょっと心配。
 
 結局、圭吾は本格的に風邪を引いてしまったということで、そのあと二日間ほど連絡が取れないままになっていた。私が彼に会えたのは、合格の嬉しさもいい加減おさまった、三日後だ。


「じゃ、これが三日分のプリントね」
 今日の授業が終わると同時に真由美が学級委員を連れてきて、彼から配布物を受け取ると、そのまま私に手渡した。
「これは?」
「小林君の休んでいた分のプリント。緊急性は無いけれど、家に行く口実くらいにはなるでしょ?」
「そういうわけで、よろしくな」
 学級委員は私や真由美と同じ地区の子だから、圭吾の家からは離れている。あきらかに助かったという顔をして、彼はそそくさと帰ってしまった。
 ……ってことはつまり、圭吾の家に行くのは、私?
 圭吾の家に、会いに行く。
「ま、真由美っ。なんでっ? え?」
 事情が飲み込めて、一気に鼓動が早くなった。そんな、彼の家をいきなり訪ねるなんて、無理。絶対に、無理!
「だから、プリントを届けに行くんだってば。家に行ったことないんでしょ? チャンスよ、チャンス!」
「って、なんのチャンスよーっ」
 真由美が私の応援をしてくれていることはよく分かっている。けれど、彼女は時々こうやって暴走した。学校来られないほど風邪引いて寝込んだままの圭吾に会うって、それは可哀想じゃないんだろうか?
「あずさ、分かっていないわね。体弱っている人間は、ちょっと心も弱っているのよ。そんなときに彼女がお見舞いに行けば、また感動されるに決まっているでしょ?」
 妙に眼をきらきらと輝かせて、真由美が力説する。その自分に酔いしれたかのような口調に、逆に聞いている私のほうが落ち着いてきた。
 ……だんだん分かってきたぞ。
「真由美ちゃん、そのシチュエーションは昨日テレビでやっていたドラマから? それとも今はまっているっていう、マンガのほうから?」
 聞いた途端、真由美はいたずらが見つかった子供のようにびくついた。
「ばれた?」
「分かりやす過ぎ」
 緊張した分ちょっときつめに言ってみる。でもさすが親友。全然気にすることも無く逆に胸を張って言い返してきた。
「三日も学校休んでいれば小林君だって寝ているの飽きてくるって。行ってあげなよ、あずさ。途中までついて行ってあげるからさ。ね?」
 そういって真由美はにやりと笑う。確かに私も圭吾のことは心配だし、家に行くチャンスって言えばチャンスなんだと思う。思うけど、私使って楽しむつもりが見え見えだよ、真由美。
「真由美にも好きな人がいたら、私だって応援してあげるのにね」
 応援、の部分を強調して、わざとらしくため息をついてみた。
「私はまだいいよ。こうやってあずさのとか、他の人の恋愛に口出しているほうが面白いもん」
 きっぱりと言い切って、真由美は教室を見渡した。
「沙希ちゃん、ねえ、小林君の家って近いんだよね? この子に家までの行き方教えてやってくれない?」
「行くの? あずさ」
「うん。……ごめんね、教えてくれる?」
 沙希ちゃんも交えて話をしながら、私はこっそりと本気のため息をついた。バスケ部の高野君。真由美のこと好きなんだって結構有名な話なんだけどな。当の本人がこれだから、私も上手く話を持っていくことができない。なんとかならないかなぁ。
「ほらあずさ、ぼーっとしない。」
 怒られて、慌てて意識を向けた。今は真由美じゃなくて私の心配だよね。うわ、また緊張してきた。


「真由美」
「なに?」
「一緒に、会う?」
「冗談言わないの」
 圭吾の家の玄関前で立ちすくみ、真由美のコートを掴んだら、きっぱりと言い返されてしまった。
「じゃあ、もう行くからね。報告は明日聞くよ。頑張れー」
 ひらひらと手を振って、真由美が沙希ちゃんと共に去っていく。楽しんではいるかもしれないけれど、人様の恋愛にここまで付き合ってくれているんだもん、本当に感謝だ。
 私はカバンを抱きかかえつつ、チャイムを押した。
「はい」
 インターフォン越しに、圭吾の声がする。
「あ、あのっ、私。……宮崎です」
「あずさ?」
 驚いたような声がしたかと思うと音がふつりと途切れ、しばらくして玄関が勢いよく開いた。
「どうした?」
「えっと、プリント届けに」
 そういって圭吾に笑いかける。三日間も休んでいたんだ。もっと病人っぽくやつれているのかなと思っていたけれど、見た目は普段と変わらなかった。着ている服もジーンズにセーターで、パジャマじゃない。
「風邪は?」
「治ったよ。今日はサボりみたいなもん。上がって」
 圭吾も突然のことに慌てているようで、いつもよりも早口にそういうと、玄関に引き込まれた。
「……お邪魔します」
 どうしても小さくなってしまう自分の声に気付き、余計に緊張しながらも家に上がった。
「家の人は?」
「まだ帰ってきていない。俺の部屋、二階だから」
 通されて、椅子に座るとそのままちょっと待たされた。
 右手にベッド。左手に本棚。サッカー雑誌がぎっしりと詰まっていて、外国人選手のポスターが壁に張ってある。あ、プラモデルも発見。我が家はお父さん以外女だから、こういう典型的な「男の子の部屋」って初めてだ。
 そういえば倉沢家も、台所とかリビングとかしか入らないから、俊成君の部屋って見たことないな。
 ぼんやりとそんな事を考えながら待っていると、マグカップとペットボトルのジュースを手に圭吾が戻ってきた。
「ポカリしかないけど、いい?」
「うん」
 短く答えたあと、短すぎて言葉が足らなかったかなとか考えて一人焦ってしまう。やっぱり人の家は緊張しちゃうよ。
「じゃあこれ、プリントね」
 なんとなく間が持たず、がさごそとカバンからプリントを取り出した。
「調子はどう?」
 とりあえず、気になっている事を聞いてみる。
「もう全然平気。風邪っていっても元々たいしたこと無かったし。どうせこの時期、学校行っても面白くないしな」
「本当にサボりだったんだ」
「違うよ。一応ちゃんと風邪はひいていたから」
 本当はどっちなのか、よく分からなくなってしまった。でも圭吾はもうこの話をする気はないようで、思い出したようにポカリをついで手渡してくれる。
「ありがとう」
 お礼を言って受け取ると、一瞬だけ指が触れた。
「あ」
 とっさに漏れた自分の声に、うろたえる。指触れただけなのに、過剰反応だ。
 笑って誤魔化そうとして圭吾をちらっと見てみたら、彼は何も言わずこちらをじっと見つめていた。
 えーっと。
 なんか、話してくれないのかな。こんなところで会話が切れると、やたらに恥ずかしいんだけど。
 眼を合わせることも出来なくて、私はポカリを一口飲んだ。
「公立、受かったんだろ?」
 突然、今まで流れとは関係なく圭吾が聞いてきた。
「あ、うん」
 短く答えて、また焦る。もっと何か言わなくちゃ駄目だ。
 でも、聞いてきた圭吾の態度もいつもとどこか違う感じで、うまく返すことが出来ない。何か話そうと思えば思うほど、焦りだけが高まっていく。
 圭吾はそんな私を見続けながら、ベッドに深く腰掛けた。
「稜和高校って、倉沢も行くんだって?」
「え?」
 圭吾の声の低さに、慌てて彼を見つめ返す。
「佐々木君も、一緒だよ?」
「うん。勝久から聞いた」
 去年の十一月の、あの嫌な感じを思い出す。
 なんだろう、かたくなな圭吾の態度。
 とっさにフォローを入れたのにあっさりと流されて、圭吾の心にそれは届かないのが分かる。
「もう一校のさ、私立の女子高にも受かっただろ? あずさ、そっちに行きなよ」
「そんな……」
 困ってしまって中途半端に言葉を切る。なんで圭吾は俊成君がらみの話になると、こんなに神経を尖らすんだろう。
「倉沢は、ただの幼馴染だよ」
「知っている」
 言葉を切って目を伏せる圭吾。でもすぐに睨み付けるように私を見て、宣言する。
「でも嫌なんだ」
「なんで? 倉沢は圭吾とは関係ないよ?」
 安心させたくて、以前お姉ちゃんに「冷たい」といわれた言葉をあえて使ってみた。でも、圭吾には効かなかったみたいだ。
「あずさとは関係あるだろ? 嫌なんだよ、あずさがちょっとでもあいつの事を考えるのが」
「だって稜和に行くのは私と倉沢だけではないよ。佐々木君だって行くし。佐々木君のことはいいの?」
「勝久とあずさは関係ないだろ」
「倉沢だって関係ない」
「じゃあ、倉沢と話はするな。あいつと視線も合わせないって、約束してよ」
「圭吾……」
 話をしていくうちにどんどんと悲しくなってきた。
 言葉が、通じない。感情はぶつけてくるのに、そこに気持ちが伝わらない。なんで圭吾と私の間に、俊成君を挟み込まさなくてはいけないの?
「なんで」
 なんでそんなに私と俊成君の間を圭吾が離そうとするの? なんで私と俊成君の距離を、圭吾が決めようとするの?
「圭吾は、倉沢とは関係ないんだよ?」

 私と俊成君の間の距離を決めるのは、私と俊成君の二人だけだよ。

 でもそれは私と圭吾の間にもいえることで、恋愛以外にも家族や友達とか、少しでも気持ちをつなげていたいと思う相手となら、誰とでも当然のこと。
 そう続けていきたかったのに、私は圭吾に肩を掴まれると、一気にベッドに押し倒されてしまった。
「圭っ……!」
 ガツッという衝撃が頭に響いて、口の中、鉄錆びた味が広がった。くちびるに何か柔らかい感触がする。でもそれは妙に生々しくって、不愉快で。
「んーっ!」
 息が出来ない。涙がにじむ。
 一生懸命圭吾の体を押し返そうとしたのに、男の子の体はびくともしなかった。
 怖い。怖い。怖いっ。
 しだいに震えてくる体に精一杯の気力を振り絞って、こぶしを握って目の前に振りかぶった。
「ってーっ!」
 そんな声と共に、自分の体に覆いかぶさっていた影が消え、視界が明るくなる。ベッドの前には左頬を押さえて、こちらを見ている圭吾がいた。
「ぐーで殴ることは無いだろっ? ぐーでっ!」
「じゃあ、ぱーだったら素直に止めてくれたのっ?」
 思いっきり叫んで、肩で息をした。
「え? ……いや、どうだろ」
 虚をつかれたようにつぶやいて、圭吾が一瞬黙り込む。
 ぐーだとか、ぱーだとか。
 こんな状況なのに、言葉の響きは気が抜けていて、妙な間が流れてしまう。
「……なんか、馬鹿みたいだな」
 圭吾がまた小さくつぶやいて、かすかにそっと笑い出した。
 空気を震わすために、この嫌な空気を振り落とすために。圭吾が息を吐き出すように笑っている。
「あずさ」
 ひとしきり笑ったあと、圭吾がうつむき加減のまま呼びかけた。
「うん?」
「俺、すっごいわがままだから、自分が好きになった女には、俺以外を見ては欲しくないんだ」
「……うん」
「ごめんな。やっぱり俺、あずさとは無理だ。どんどん、駄目になっていく。これ以上お前のこと、好きになりたくない」
 返事が出来なくて、黙ったまま私もうつむいていた。圭吾はそんな私をちょっとの間見つめると、ふいに気がついたようにティッシュを数枚差し出す。
「くちびる、切れている」
「え?」
 慌てて触って、そのぴりっとした感覚に眉を寄せた。どうりで血の味がすると思った。
「傷つけて、ごめん」
「いいよ、そんな」
 どっちが傷ついたんだか分からないくらい、圭吾の顔だって蒼ざめている。そんな彼の表情を見ていたら、責める気にはなれなかった。
「ここから、一人で帰れるか? 送っていけなくて、……悪い」
 もう二度と。
 まだ風邪治っていないとかそんなんじゃなく、圭吾が私を送るためにあの公園まで付き合うことはもう無いんだ。
「いいよ」
 それ以上何かを言うことが出来なくて、私は立ち上がった。カバンを抱きしめて、圭吾の横を通り抜けて、部屋を出る。圭吾は無言で私の後を付いてきて、玄関まで見送ってくれた。
「じゃあね」
「うん」
 言葉を、もっと何か言葉を相手に与えたいのに、何も出てこない。圭吾の表情は、多分今の私と同じ表情だ。
「ごめんね」
 この言葉だけを思いついて、最後に口にした。圭吾の顔が困ったように小さくゆがんで、

 パタン。

 私は扉を閉めた。