二人の会話

第二部  二人の距離


その七

 だらだらと、いつもの倍は時間をかけて、通学路を歩いていた。気が付けばもうすっかり日は落ちて、あたりは暗い。買い物帰りの親子連れに追い越され、ああもうそんな時間なのかと思った。
 なんだかひどくぼんやりしている。放課後、真由美と沙希ちゃんの三人で帰ったところまでははっきりしているのに、そのあとからが夢のようだ。
 商店街を抜けて公園に出て、そこからもうちょっとで自分の家という所まで来て、私の足は止まってしまった。
 家に帰りたくない。
 この時間まだお母さんはいないけれど、しばらくしたら帰ってきて夕飯の支度が始まる。そういう、人の気配が嫌だった。一人になりたかった。
 冬の夜の公園は人気が無くて、ひどく寒々しい。ブランコに腰掛けると、ゆっくりと漕ぎ出す。小さい頃は力いっぱい揺らして遊んだブランコなのに、今は脚がつかえてうまく揺らせない。
 大きくなればなんでも出来るようになるって、思っていたのにな。
 うつむいて、息を吐いた。
「なにしてるんだ?」
 ざりっという砂を踏む音がして、頭上から声がした。
「……ああ」
 俊成君だ。
 ゆっくりと顔上げて、ぼんやりと目の前の人を見つめて確認する。なんでここにいるんだろう?
「なんでここにいるんだ?」
 私の疑問を俊成君が口にした。
「なんでここにいるの?」
 答える気が無く、聞き返す。
「夕飯食いに、店に行く途中」
 そこで言葉を切ると不審そうに目を細め、私の口元を指差す。
「切れてる」
「うん」
 しばらく無言で俊成君を見つめた。
 結局、圭吾と私の仲は、この目の前にいる幼馴染の存在によって壊れてしまったんだよなぁ。
 何も知らずにどこか心配そうな表情で私を見つめ返す俊成君を眺めているうち、だんだんと乾いた笑いがこみあげた。
「どうしたんだよ」
「うん」
 やっぱりまだ答えたくなくて、俊成君をぼんやりと見続けた。
 小さい頃から見慣れた、俊成君の顔。好きとか嫌いとか、そんな区別をつける前から俊成君は傍にいた。私の中で俊成君は、そこにいるのが当たり前の存在。
 それなのに、ね。
「私さ」
「ん?」
「カキフライ、好きなんだ」
「は?」
 突然の私の告白に、俊成君はあっけにとられた様な顔をした。でも構わない。私は気にせず話を続ける。
「生ガキはね、駄目なの。あんなに生臭くってぐちゃっとしたのは食べられない。でも、カキフライは火が通っているし、旨みが凝縮されていて美味しいよね。揚げたてが一番好き。けど、うちのお母さん、揚げ物が苦手なの。へたくそだし台所が汚れるから揚げ物したくないって、カキフライ作ってくれないの。だから冬に『くら澤』行くと、いつもカキフライ頼んでいた。カキフライ、食べたい」
 一気にそこまでカキフライへの情熱を語ると、私は睨み付けるように俊成君を見つめた。
「……で?」
 私が何を言いたいかなんて分かるわけも無いのに、俊成君は笑い飛ばすこともせず先をうながしてくれる。いや、呆れているから否定しないのかな。まあ、いいか。
「圭吾は、『くら澤』に行くなって言った。俊成君と話すなって。でも私、『くら澤』のカキフライ、好きなんだ。圭吾と比べたこと無いけれど。でもどっちも好きだった」
 うん。好きだった。カキフライも、圭吾も。
 学校のアイドルだった男の子が急に振り向いて、自分だけを見て笑ってくれる。手をつないでくれる。一緒に帰ってくれる。好きになるよね、ならないわけが無いよね。
「今度ね、人を好きになるときには、『くら澤』でご飯食べるのも俊成君と話すのも否定しない、そんな人を好きになる。私」
 宣言してから、ずうんと胸の奥が痛んだ。鈍い、鈍い痛み。
「本当に、……好きだったのになぁ」
 顔を上げていられなくなって、うつむいた。
 好きだったんだよ、本当に。圭吾が求めるような、圭吾だけを見ているような「好き」は出来なかったけれど、私なりに精一杯やっているつもりだった。けど圭吾みたいにストレートに自分の感情伝えること出来なくって、いつでも受身にまわっていた。好きって気持ち、上手く伝えることが出来ないでいた。だから俊成君と私の関係、誤解したんだよね。私があと一歩踏み出せていれば、こんな風にならなかったかもしれないんだ。
 ぐるぐると考えは渦巻いて、出口の無い暗闇の中に入り込んでいく気がした。深く深く落ちていって、もう一生そこから抜け出せないような気になったとき、ふわっと、頭に何かが乗る感触がした。

 暖かい、優しい手。
 規則的にゆっくりと、私の頭を撫でていく。

 気が付くと私の目には涙があふれていて、ぼたぼたと膝の上に落ちていた。
 でも、声を上げて泣くことが出来ない。目の前の人に、そこまで頼るような真似をしたくなかった。男の子だけじゃない、女の子だって厄介だ。
 手は、何度も何度も私を撫で上げ繰り返された。ゆっくりゆっくり、染み込んでいく優しい気持ち。素直に泣きつくことができない私を許すように、何度でも触れてくる。
 そしてその度に少しずつ、私の心は落ち着いていった。
「……ごめんね。ありがとう」
 どのくらい経ったんだろう。
 時間の感覚もすっかりなくなっていたけれど、気持ちが落ち着いたので鼻をすすってつぶやいた。俊成君はそっと手を離すけど、その場を去ろうとはしない。
「それ、小林にやられたのか?」
 自分の口元を指差して、聞いてきた。
「これ?」
 ついつられて口元を押さえ、鈍い痛みに顔をしかめる。そういえばこれって、何で出来たのかっていうと、えーっと、
「いや、別に大したことじゃないから!」
 急に慌てて手を振って否定した。考えてみればこれって、私のファースト・キスだったんだよね。
 ファースト・キス。これがかぁ。
 さすがにそう考えると、気持ちがへこむ。まさかこんな形で貴重な私のファースト・キスが奪われるとは思わなかったな。
「大したことじゃないんだろ?」
 なおも聞き返してくる俊成君を見上げて、びくっとした。かなり、不機嫌な顔つきしてるんですけど。
「心配、してくれている?」
 ためしに聞いてみたら、即答された。
「当たり前だろ」
「へ? ……あ、ありがとう」
 あまりにもさっくりといわれてしまったので、一瞬こちらの反応が遅れてしまった。
 でも、確かに心配はするか。ふられたって泣いて、ケガしているんだもん。今の俊成君の表情、カズ兄にそっくりだ。
「本当に大丈夫だよ。私もぐーでなぐっちゃったし。おあいこだったの」
 自然に微笑が浮かんできた。
 正直、初めて男の子の事を怖いと思った。あんなに力込めて抵抗したのに、圭吾の体はびくともしなかった。多分その気になれば私の意志なんか関係なく、それ以上のことも出来たんだと思う。そう深く考えるとどんどんと体は震えてくるけれど、でも実際のところ圭吾は途中でやめてくれた。ごめんって、謝ってくれた。私もただされるままじゃなくて、ちゃんと抵抗できた。だから今、微笑んでいられる。
 俊成君はしばらく考え込むように黙り込むと、ためらいがちに聞いてきた。 
「うち、来るか?」
「え?」
「『くら澤』。今日、親父が組合の旅行でいないんだ。かわりにユキ兄が店やっている。あずだったらユキ兄が飯作ってくれるから。カキフライ、食ってく?」
 カキフライ。
 そういえばさっきとっさに浮かんだのがこの単語で、気が付くといろんな感情込みで訴えていたんだった。私の頭撫でている間、俊成君は真剣に考えてくれていたのかな。
 あ、駄目だ。なんか涙でそう。
 慌ててうつむいて、涙をぬぐう。今弱っちゃっているから、ちょっとした感情のふり幅で涙が出る。俊成君、いい人だ。
「ユキ兄、ハンバーグ作ってくれるかな?」
 深呼吸して気を落ち着かせると、私は俊成君に向かって笑いかけた。
「はい?」
「カキフライ好きだけど、それだけって寂しいんだ。『くら澤』はね、ハンバーグも好きなの。上に半熟の目玉焼き乗っているじゃない? あれ崩して食べるのが好き」
 俊成君はじっと私の顔を見つめると、ふいにくすりと笑ってポケットに手を突っ込んだ。
「カキフライとハンバーグの組み合わせはスペシャルだよ。結構するんだぞ」
「えー、駄目?」
「ユキ兄に直接交渉しろよ。合格祝いだって言えば何だって作ってくれると思うし」
「じゃあ、ビーフシチュー!」
「あれは時間掛かるから予約制」
「ちえー」
 他愛も無い話を続けながら立ち上がる。まだまだ気持ちは落ち込んだままで、胸の奥の痛みは続いている。けれど、とりあえずこの公園から出られるほどには回復した。
 カキフライ食べて、ハンバーグ食べて、うちに帰ろう。

 数歩先、私が歩き出すのを待っている俊成君に向かって踏み出した。


-第二部 終わり-