二人の会話

第三部  二人の会話


その一

 一分一秒を争う朝の時間。テレビから流れるお天気予報をバックに、私は焦りながら歯を磨いていた。
「あずさー、そろそろ急がないと俊ちゃん来ちゃうわよー」
「わかってるっ」
 のんびりとしたお母さんの声。その余裕に逆にあおられて叫び返すと、口をゆすいで鏡を見る。リップをぬって、よし、準備オッケー。
 小さくうなずくと、まるでそれを待っていたかのようにピンポンがなった。
「おはよう。いつも悪いわね」
 お母さんの声が玄関からするけれど、相手の声は低いせいか聞こえない。私はカバンを掴むと玄関へと向かっていった。
「お待たせっ」
 靴を履いて外に出る。そこでようやくゆとりが出来て、目の前に立っている幼馴染の姿を見つめた。
「行くぞ」
 淡々とそう言って、先に歩き出す俊成君。
「うん」
 私もすぐに追いついて、隣に並んで歩き出した。
 気が付けば高校生活も二年と十ヶ月弱。私達はあともう少しで卒業をしようとしている。


「寒いね」
 マフラーに顔をうずめ、きれいに晴れ渡った空を見上げた。そういえばさっきの天気予報、今年になって二度目の寒波が来ているって言っていたっけ。
「あそこ」
 俊成君は私のつぶやきに返事をする代わりに、ふと前方の家を見つめ指差した。
「梅が咲いている」
「あ、ほんとだ」
 垣根からのぞいている梅の木は白い花をほころばせ、その横を通るときかすかに清らかな香が匂ったような気がした。
「毎年ここの梅が咲くと、まだ全然冬なのに春が来たって気がするんだよね」
 なんだか訳もなく嬉しくなって、微笑んでしまう。
「いつの間に咲いたんだろうな」
 通り過ぎていった梅の木をさらに振り返り、俊成君はつぶやいた。その不審そうな表情に、私は最近の彼の生活を思い出す。
「そうか。俊成君、それどころじゃなかったもんね。私はあの木がつぼみ付けていたの知っていたよ」
 ちょっと自慢げにいったら、すかさず反撃された。
「花が咲いたのは俺に先に発見されたけどな」
「むかつく」
 負けずに言い返したら、面白そうに笑われてしまった。
 高校三年生。今は受験の真っ最中。俊成君は一昨日昨日とセンター試験を受けていたんだ。毎日通っている道だけど、さすがに人様の庭木にまで目は行かないよね。
「で、どうだったの? 試験」
「まあ、そんな感じ」
「そんなって、どんな感じか分かりません」
 わざと煽るように言いながら、俊成君のいつもと変わらない表情にほっとする。この調子なら大丈夫だったみたい。

 同じ高校には進んだものの、小学校中学校に引き続きやっぱりクラスは別だった。私の希望進学先は私立の文系。俊成君は国公立の理数系だから、クラスが違うのも当たり前か。ちなみに私は推薦が取れたので、去年の段階で大学が決まっていた。同じ高校三年生でも、立場が全然違う。
「勝久君は?」
 同じ中学校出身、今ではすっかり仲良くなった佐々木勝久君について聞いてみた。
「本人に聞いてみなよ。あいつも今日は学校来るはずだから」
「じゃあいつもの電車に乗るね」
「奴が遅刻してなきゃな」
「微妙だなぁ、それ」
 苦笑しつつ駅に向かう。
 思えば三年前の高校入学式当日、どうせ行き先一緒なんだからという理由で俊成君が私を迎えに来て、乗り込んだ電車の一つ先の駅で勝久君と合流した。あれ以来、私達三人の集団登校は続いている。でももう、そんな生活も終わっちゃうのか。
「おはよう」
「おー」
 いかにも寝起きのテンション上がっていませんという表情で、勝久君が電車に乗ってきた。毎朝同じ電車、同じ車両で合流するとはいえ、さすがにラッシュアワーでのんびりと話をするわけにもいかない。混んだ車内ではあっという間に人にもまれ、勝久君と私達の間は離れてしまった。うまくいくと三人揃って一箇所に固まるときもあるんだけどな。今日はいつにも増して混んでいるみたい。
 ブレーキの揺れで慌てて吊革につかまったら、すぐ横にいる俊成君の肩に後頭部がぶつかってしまった。
「あ、ごめん」
「ん」
「今日混んでるね」
「電車遅れたのかもな」
 なんてことは無い話をしながらぼんやりと窓の外を見た。あと一月ちょっとするともう卒業。俊成君と勝久君は受験の真っ最中だからそんなこと考えている余裕無いだろうけど、私にはたっぷりと時間がある。最近ちょっとしたことですぐに感傷に浸るようになってしまっていて、自分でも不安定だなって思っていた。
 卒業、しちゃうんだよな。私達。

「で、勝久君は? どうだったの」
 電車から降りて学校へと向かう途中、話題はやっぱり受験についてだった。
「駄目。やばいわ、俺」
「でも元々私立狙いだろ?」
「まあね。第一志望落ちても、最終的に受かったところでいいかとか考えたりしてさ。でも、そんな事言ってるから駄目なんだよな」
 台詞だけ聞くと結構弱気なんだけれど、表情に深刻さはうかがえない。勝久君の特徴はこの飄々とした性格だ。
「あー、おれもあずさみたいにさっさと推薦取っていたら良かったんだよな」
 子供が悔しがるような言い方に、くすくす笑って言葉を返した。
「残念だったね」
「ちゃんと心込めて言ってるか? 棒読みだぞ、あず」
 すかさず俊成君が突っ込んでくる。まったく。油断するとすぐこうやって人の事をからかうんだ。
「心こもっているよ。本当に、二人とも受かるの願っているもん。勝久君にも俊成君にもいい結果が出るといいよね」
「いい結果、出したいよな」
 勝久君が真面目な口調でつぶやいて、空に向かって伸びをした。
「そうだな」
 その手の先を見つめながら、俊成君がうなずいた。
 勝久君は不思議な人で、いつでも人と人の間に立って、その場をのんびりと穏やかな雰囲気にさせてしまう。中学時代、あれほどかたくなに苗字で呼び合っていた私と俊成君だけど、高校に入って勝久君から「それじゃ俺が宮崎さんのこと名前で呼べないだろ?」といわれた。その一言であっさりと戻ってしまったのがいい例だ。こんな彼だからこそ中学の頃、全然タイプの違う俊成君とも圭吾とも仲良くやっていけたんだろうな、とこっそり思っている。
「そういえば私、二人の第一志望って聞いていない気がする。どこ希望しているの?」
 思いついて聞いてみて、二人の顔を交互に見つめた。
「え? 知らなかったっけ」
「うん」
 勝久君に聞き返されて素直にうなずく。
「俊、言ってないのか?」
 なぜだか勝久君は私に答える代わりに俊成君に確認してきた。
「でも、私も別に聞かなかったし」
 めずらしくどこか責めるような口調の勝久君に戸惑って、一応フォローを入れておく。
 俊成君だけじゃなくて勝久君の第一志望だって聞いたことないし、なんでこの点で勝久君がそんな反応するんだかが良く分からない。お互い、よっぽど現実離れした大学選んじゃったとか、聞かれると恥ずかしいような大学にしちゃったとか、そんなことなんだろうか。
「ま、俺は良いとして」
「センパーイ、お早うございます!」
 勝久君の言葉は、後ろから聞こえる女の子の呼び声でかき消されてしまった。
「倉沢先輩、勝久先輩、どうでしたか試験」
 この朝の寒さで勝久君だけじゃない、私達の動きは鈍い。それに比べて小走りでやって来る女の子は頬を上気させ、まるで校庭十周走り終えたような勢いだった。
「ハルカ、朝練か?」
 勝久君が仔犬にでも呼びかけるような気軽さで、彼女に尋ねる。
「はいっ。地区大会目前ですから」
「来週だっけか。頑張れよ」
「勝久先輩も、倉沢先輩も、受験頑張ってくださいね」
 にっこり微笑む女の子は小さくて可愛くて、なんだか勝久君が仔犬扱いするのが判るような気がした。朝練ってことはバスケ部なんだろうけど、この様子じゃマネージャーなのかな。
 テンポの良い、このはきはきとした体育会系特有のノリについてゆけず、俊成君と二人で目の前の光景をぼんやりと見つめてしまう。
「倉沢先輩!」
 けれど、同じくバスケ部員だというのにどこか他人事の俊成君に気が付いたのか、彼女が突然こちらに振り向いた。
「また部に顔出してくださいね。たまには体動かさないと鈍っちゃいますよ」
「今週中に顔出すよ。勝久と一緒に」
「待ってます。それじゃあ」
 嵐のように現れた女子マネは去り際も嵐のように、あっという間にいなくなった。
 ……えーっと。
「あず、お前たちの下足箱はそっち」
「え? あ、うん」
 俊成君に指されて、ようやくはっとした。
「じゃあね」
「ああ」
 別れて靴を履き替えてから、少し前から黙り込んだままの勝久君に向かって聞いてみる。
「で、勝久君。あれは一体?」
「えーっと、うちのバスケ部の女子マネ。清瀬遥、二年生」
 ちょっと困ったような表情を浮かべて、勝久君が視線を反らす。
「勝久、あずさが聞きたいのはそんなことじゃないって分かっているんでしょ?」
 そんな声と共に、勝久君の頭にカバンの角がふってきた。がつんという音が響き、勝久君がうずくまる。慌てて背後を振り返ると、そこにいたのは美佐ちゃんだ。
「美佐江っ、てめーっ。自分の彼氏になにするんだよ」
「美佐ちゃん、見てたの? 今の」
「いやもうばっちり。にっこり微笑みつつ、最後にあずさに向かってガン飛ばすハルカとかいうのの表情まで、きっちり見たわよ」
 ふふんと鼻で笑う美佐ちゃんは仁王立ちで、その態度と表情からあきらかに今の光景を楽しんでいた。
 人当たりが良くて和み系の勝久君と、美人だけれど突込みが容赦ない太田美佐江ちゃん。この特徴的な二人にくっついているのが、同じクラスの私。
 朝の登校は俊成君と勝久君の三人だけれど、校内に入ってしまえば美佐ちゃん含んだこちらの三人の方が親密度は高かった。あわせると四人一組、なのかな。
「で、あれはなんなのよ」
 美佐ちゃんが、さっきの私と同じ事を聞いてくる。
「いや、だから女子マネで」
「彼女の素性じゃないっていうの。あの露骨なアプローチといい、隠しようも無いあずさへの対抗意識といい、あの行動はなんだってこと」
 勝久君を問い詰めながら教室に入り、美佐ちゃんはどっかりと席に着いた。なまじ美人だから、こういう仕草一つで迫力が増す。
「確かにさっきのは、ちょっと俺も焦った」
 かたや勝久君といえば、そんな彼女の態度を恐れるわけでもなく、ごくごく普通に話しを続けている。さすが一年生の頃から付き合っているだけある。
 とはいえ、今回の件は美佐ちゃんと勝久君の間の話ではなく、私と女子マネとの間の話だ。私は自分の席に着くと、勝久君に問いかけた。
「原因は、俊成君でしょ? でもなんで? 俊成君って今フリーじゃなかったっけ?」
 私の幼馴染は順調に成長し、気が付けばそれなりに見た目の良い人になっていた。中学生のときは細くバランスの取れていなかった体格もしだいに筋肉がつき、同時に顔つきが引き締まった。愛想が無いためそうそう騒がれることも無いけれど、その分女の子の妄想に当てはめやすくなる。彼女になれば自分だけが俊成君の特別になれると夢を描く女の子が何人か現れ、そして意外なことに俊成君はそういう子達をあからさまに拒否することはなかった。
 つまり自分から振ることはない、ってことなんだけど。
「告白されれば誰とでも律儀に付き合う奴だって知られているのに、なんでそれしないで幼馴染を威嚇するのよ」
 美佐ちゃんの疑問にうなずいて、もう一度勝久君を見つめる。
「それは前回の別れ方に原因があるからだな」
 うーんとうなりながら、勝久君は答えてくれた。
「前回の別れ方?」
「さすがに受験生だろ、俺たち。面倒くさかったんじゃないか? 去年のクリスマス前に模試を理由にデート断ったら、案の定振られたって言っていたから」
「なにそれ。案の定って、振られたくて計算してデート断ったってこと?」
 美佐ちゃんが眉をひそめると、勝久君が否定するように手を振った。
「計算って程でもないよ。どちらかっていうと、振られてもいいや位の気持ちというか」
「……なんか、中学生の頃と基本的に変わらないことやっているよね」
 昔の俊成君のふてくされた表情を思い出してしまう。
 こっちに勝手に夢ばかり持って、うまくいかないからって文句言うの、ずるいよな。だっけ?
 まさか三年後の今もそんな状態を繰り返しているなんて、あのときの俊成君には想像できなかっただろうな。
「そういえば、そんなこともあったな」
 俊成君と谷口さんが別れた経緯を思い出したのか、勝久君が笑い出す。なんとなく雰囲気が昔を偲ぶのんびりとしたものになり、美佐ちゃんの眉がより深くよせられた。
「これって和む話題じゃないでしょ。前から思っていたんだけど、なんでその気も無いのに女の子と付き合って別れるを繰り返すんだろうね、倉沢は」
 確かにもっともな突込みだ。私は三年前を思い出そうとして、手元を見つめた。
「あんまり深く、考えていないのかな?」
「なにを?」
「付き合うこと。というのか、好きになるって感情のこと」
 好きになると、どんどん気持ちが加速してゆく。あっという間に膨らんでゆく。そんな相手の感情をうまく受け止めることが出来なくて、だから結局別れちゃうんじゃないのかなって思った。それは私自身、過去に失敗したことでもあるんだけれど。
 って、なんか話が違う方向にずれたかも。
「ともかくさ」
 勝久君も同じ事を思ったらしい。ずれた話を元に戻すように、言葉を続けた。
「受験が原因で別れたんだから、チャンスを狙っている方としてはその時期は止めておこうってなるだろ。でも、うかうかとしていると、いつ誰に取られるか分からないと」
「ああ。それゆえの威嚇行為って訳ね」
 美佐ちゃんが納得したようにうなずく。
「ただでさえ三年生は二月に入れば学校には来なくなるしな。俊の場合、今までを考えると言った者勝ちだろ? 一番バッターとして名乗り上げて、他に邪魔はいらないようにしているんだと思うよ」
「じゃあこれからあの子、倉沢の周りでちょろちょろしだすって訳?」
 俊成君の心配とかではなく、なにかと一緒に行動する事の多いこの四人を考えているんだろう。露骨に鬱陶しそうな表情をする美佐ちゃんの問いに、勝久君が肩をすくめた。
「俺に聞くなよ。でも、うちの部のマネージャーやってるくらいだから、無駄に体力と行動力はあるぞ、ハルカは」
 基本的にいい子なんだけどねー。という言葉を付け足して、勝久君が自分の席に戻ってしまった。私は後姿を見送りながら、心の中で小さくつぶやく。
 言った者勝ち、かぁ。
「あずさ起きてる?」
「え? ちゃんと起きてるよ」
 慌てて微笑んで返事をした。美佐ちゃんは何か言いたそうに口を開けかけるけれど、その途端チャイムが鳴る。先生が現れたため、話が途切れてしまった。私は少しほっとしながら前を向き、黒板をぼんやりと眺めた。

 年々華やかになってゆく俊成君の身の回りに比べ、私のほうはいたって地味だ。
 奈緒子お姉ちゃんは高校に入ってから急に可愛くなった記憶があるのにな。自分の容姿に関してはいつも一緒にいるのが美佐ちゃんのせいか、やっぱり元が良くないと何やっても駄目なのかなって落ち込むときがよくある。気が付くと浮いた話も心ときめく出会いもないまま、高校生活を終えようとしているし。
 これなら中学三年生の頃の方が圭吾とのことがあった分、恋愛に関しては絶頂期だった。

 清瀬さん、だっけ?
 さっきの彼女の顔を思い出して、また知らずにため息が漏れてしまった。
 威嚇で睨み付けられたのはびっくりしたけれど、それよりも俊成君に話しかけたときの嬉しそうな表情が印象的だった。可愛かったな、清瀬さん。
 本当に俊成君のことが好きなんだろうな。あんな顔して告白されたら、俊成君はやっぱり今までのように付き合うことにしちゃうんだろうな。
 ……卒業しても、ずっと。
 この三年間、俊成君の横に自分の知らない女の子が現れて消えるのを見ていたくせに、なぜだか清瀬さんのことは気になった。
 ああもう。なんでこんなにこだわっているんだろう。

 コントロールすることも出来ずに勝手に沈んでゆく自分の心に、少しばかり苛付いていた。