二人の会話

第三部  二人の会話


その二

 美佐ちゃんの予想は当たっていたようで、翌日から清瀬さんは毎朝現れるようになった。
「倉沢先輩、勝久先輩、宮崎先輩、おはようございます!」
 校門をくぐった辺りから声がして、彼女が現れる。玄関までは約二百メートル。込み入った話はしないけれど、挨拶してさわやかに去っていくには十分な距離。驚いたことに彼女は私にも可愛い笑顔を見せるようになっていた。とはいえちょっとしたときに見せる目つきはきついままだけれど。
「一番バッター、やるね」
 お昼休み、美佐ちゃんと二人でお弁当を食べていたら、彼女の話になった。
「初日の露骨な威嚇行為が、幻に思えるよね」
「彼女、考えているよ。さすがに他人に興味のない倉沢だって、毎朝あずさだけ敵対視する後輩がいたら不審に思うもん。このままさわやか路線突っ走って、一気に告白か」
 美佐ちゃんは相変わらずこの状況を面白がって観察している。ああもう、なんだかなぁ。
「いっそのこと、私の見ていないところでこっそり俊成君に接近してくれないかな」
 ため息混じりにつぶやいたら、美佐ちゃんがにやりと笑った。
「無理よ。ああいうのはね、一度気になると何していても気になるんだから。今更見てないところでこそこそやられる方が嫌だって。正面切って戦おうとするなんて、さすが体育会系。正々堂々とした敵でよかったじゃない、あずさ」
「あの、ちょっと待ってね、美佐ちゃん」
 なんだかかなり誤解されている気がして、私はお箸を持つ手を止めた。
「敵ってなに? 誰のこと?」
「ライバルよ。憧れの先輩の横に引っ付いている幼馴染の存在なんて、十分強敵でしょう」
「もういいよ、それ」
 ため息ついてお箸を置いた。最近本当にため息が増えた。なんでこんなに苛付くんだろう。
 ぼんやりと自分の世界に入り込みそうになった瞬間、美佐ちゃんの声がさらりと流れた。
「倉沢もいつまでもふらふらしていないで、さっさと覚悟決めてあずさのとこに行けばいいのにね」
 へ?
「み、美佐ちゃんっ。なにを?」
 ものすごい事を言われたような気がするけれど、言った本人があまりにも堂々としているため、どう切り替えしてよいのかわからない。えーっと、これじゃあまるで私と俊成君の間に何かあるみたいじゃないですか?
 言葉に出来ないまま、色んな疑問や反論が切れ切れのまま浮かんで消えて、私の瞳は揺れていた。反対に美佐ちゃんはゆるぎないまなざしでもって、私を真っ直ぐ見つめている。
 けれどその表情はふとゆるんで、話題が変わるのを教えるように窓の外を見た。
「まあでも、一番バッターの登場も来週からは減るんだし、いいんじゃない? 自宅学習期間だもんね、私達」
「あ、うん」
 いつのまに強張っていた体から力を抜き、私もつられて窓を見た。
 三年生の三学期は、受験が一番のテーマ。うちの学校は二月に入ると自由登校となり、指定された日以外は特に出席は取らないことになっていた。予備校に通っている子はそっちで最後の追い込みをするんだろうけれど、自宅学習派とか、あえて学校に来て勉強する派とか、千差万別だ。俊成君はどうするのかな
「あず」
 ちょうどそんな事を考えていたせいか、頭上で俊成君の声がしてびくっとした。
「わっ。な、なに?」
 そのうろたえ振りに驚いたのか、俊成君がこちらをのぞきこんでくる。
「邪魔した?」
「あ、いや全然」
 焦る私を見て、美佐ちゃんが笑い出した。
「どうしたの。うちのクラスに来るなんて、珍しいじゃない」
「勝久探しにきたんだよ。あいつ今日、素直に帰るかな?」
「私と一緒に図書館でお勉強。残念でした」
 そう言ってきれいに微笑む美佐ちゃんに俊成君は肩をすくめてみせると、私を見つめた。
「じゃあ、あず。一緒に帰ろう」
「え、うん」
 一緒に帰るなんて、久しぶりだ。しかも俊成君がわざわざ誘うというのも滅多にないことだし。状況がうまく飲み込めず瞬きをしていたら、その間に俊成君は去っていた。うわ、素早い。
「というか、もしかして私がとろい?」
 つい疑問が口に突いたら、美佐ちゃんがお弁当を片付けながらつぶやいた。
「どっちもどっちじゃないの?」
 えーっと、何が? 美佐ちゃん。


 放課後、俊成君が教室まで迎えに来てくれて一緒に帰った。なんてことは無いいつもの道のりだけれど、こうしてあらたまって帰ると変な感じだ。さっきの美佐ちゃんの言葉も、私の頭の中にしっかり残っているのも原因なんだけれど。
「本当は、勝久君に用があったんでしょ?」
 疑問を黙ったままにする気になれず、聞いてみた。
「放課後に部によるかな、と思ってさ」
 その言葉に、清瀬さんの笑顔を思い出す。
「毎朝、あの子に誘われているもんね」
「何回か顔出しているんだけどな。熱心だよな」
 素直な感想に、思わず顔が引きつってしまった。
 俊成君、それは下心というものだよ。気付いていないのは、当の本人の俊成君だけだからさ。
「来週から俊成君は受験勉強どうするの?」
 清瀬さんの熱心な朝の挨拶運動が今後どうなるのか気になって、聞いてみた。
「基本は家。でも、学校の補講も侮れないって話しだし。結構、通うんじゃないか」
 ということは、清瀬さんの努力も継続されるわけか。
「あずは? もう指定日以外は来ないんだろ?」
「私はバイト。もう昼のシフト入れちゃってるよ」
「駅前のパン屋だっけ」
「うん。おばさん、よく買いに来る」
「あそこのコロッケパン、ユキ兄が好きなんだよな」
「あれユキ兄分だったんだ。いつも買うから誰が食べるのかなって、一度おばさんに聞こうと思っていたんだ」
 笑いながら話して、なんだかちょっとほっとしていた。
 彼女の存在とか卒業とか、俊成君をめぐる状況は色々あるのに、こうして二人なんてことない話をしていると落ち着いてくる。
 まるで台風の目だ。
 俊成君の隣はすっぽりと静かで、穏やかで、心地よい。


 翌週、二月に入り、私のアルバイト中心の生活はスタートした。
 駅前のパン屋は昔からお惣菜パンで有名で、私も小さい頃からここのスパゲティーパンが好きだった。ケチャップ味のナポリタンが挟んであるの。よく考えてみると炭水化物同士の組み合わせで栄養的にはどうなんだけれど、でも美味しいんだ。
 ご主人夫婦がパンを作って、それを売るのが私達アルバイト。お店自体は小さくて、だから売り子は二人が基本なんだけれど、とにかく忙しい。入ってみて分かったけれど、お昼のシフトは近所の会社員や学生がランチやおやつに買いに来るので、息つく間もないくらいだった。
「宮崎さん、もうあがってもいいわよ」
「はーい」
 三時になって声を掛けられて、私はようやく解放された。
「はい、ご苦労様」
 そう言っていつものように奥さんが、作りたてのパンを一つ手渡してくれる。時給以外のお駄賃だとかで、毎回これを貰うたびに嬉しくなった。
「今日はコロッケパンね。揚げたてよ」
「ありがとうございます」
 ほかほかのコロッケパンを貰って店を出る。
 先日俊成君から話しを聞いたせいか、ユキ兄の事を思い出してしまった。今はもう『くら澤』の二代目になったけど、その前はホテルの厨房にいたんだよね。なんか美味しいもの食べているイメージだけれども、その頃もコロッケパン買っていたのかな。
 のんびりとそんな事を考えながら商店街を歩いていたら、後ろから声を掛けられた。
「あずさ?」
 振り返って思わず動きが止まってしまう。
「圭吾……」
 三年ぶりの圭吾だった。
 声を掛けた本人も驚いている表情で、二人して立ち止まってしまう。しばらく見つめあっていたけれど、横を通り抜ける人に押され、はっとした。
「久しぶり」
 とりあえずそう言って、微笑んだ。
「うん。元気?」
 圭吾も微笑み返してくれる。その柔らかい表情に、今度こそ笑顔で返事をした。
「元気だよ」

 バイトが終わって家に帰るところだと説明をしたら、圭吾は送ると言ってくれた。
「公園までな」
「なんか、懐かしいね」
 くすくすと笑いながら、歩き出す。再会の直後は固まってしまったけれど、こうして一旦話し出すととても自然に会話が出来た。なんだろう。余計な気負いとか無くなったせいなのかな。
「圭吾は春からどうなるの?」
「大学行くよ。推薦取れたから。今は教習所通い」
「じゃあ今日は?」
「たまたまこっちの駅に用があってさ、帰ろうとしたらあずさがいてびっくりした」
 圭吾が目を細めてこちらを見る。その視線がこそばゆくて、私は近況報告の話題を続けた。
「サッカーは続けていたの?」
「続けているよ。大学もそれで推薦取った」
「ええ? それって凄いことだよね。」
「んー、どうだろな。好きだからやっていることだし」
 さらりと言ってのける圭吾に驚いて、ついまじまじとその横顔を見つめてしまう。
 高校ならいざ知らず、大学でスポーツ推薦って凄いことなんじゃないのかな? 非体育会系なのでどの程度凄いのかレベルまではよく分からないけれど。というか、そもそも大学行ってまで部活続けるって発想自体、私にとっては凄いことだし。
 そういえば昔から整った顔立ちをしていたけれど、そこにさらに精悍さが加わって、ずいぶん男っぽくなっていた。これもサッカーをずっと続けているせいなんだろうか。
「公園、寄ってく? 缶コーヒーおごるよ。」
 馬鹿みたいに圭吾の顔を見つめていたら、くすりと笑って聞かれてしまった。
「あ、ありがと」
 つい見とれてしまっていた自分を誤魔化すように中途半端に微笑んで、公園のベンチに座る。
 今日は天気がよくて暖かいから、こうして外で話をしていてもそんなには苦にはならない。つい一、二週間前までは、三時過ぎればもう夕方が始まりかけていたのに、気が付けば心持ち日も長くなっていた。
「あずさはどうなんだ?」
 はい、と缶コーヒーを私に手渡し、圭吾が横に座る。
「私も進学だよ。推薦取れて、今はバイト三昧」
「倉沢は?」
「今、受験の真っ最中だけど」
 素直に答えると、圭吾はちょっと考え込むような、困ったような表情で私を見つめた。
「勝久に聞いたんだけど、倉沢と付き合っていないんだって?」
「へ?」
 またもや間抜けな顔をして、圭吾を見つめ返してしまった。
「なんでだ?」
「なんで、って言われても……」
 答えようも無い事を聞かれてしまい、本気で困ってしまう。その一方で、そういえばこの人とは俊成君が原因で別れたんだっけ、とぼんやり思い返していた。
「圭吾、まだ誤解しているの?」
「誤解はしていないよ、あの時も今も。あずさと倉沢は幼馴染。けど、それだけじゃないだろ」
 それだけじゃないって、どういうことなんだろう。
「私は俊成君とは、……幼馴染だよ。ずっと、このまま」
 缶コーヒーを手のひらで転がしながら、私はぽつりとつぶやいた。
 生まれたときから一緒にいて、傍にいるのが当たり前の存在だと思っていた。でもその関係だって振り返れば、壊れかけたり修復したり、そうやって少しずつ時間を重ねて作っていったものなんだ。だから私にとって幼馴染という関係は、とても大切なもの。
「それじゃあ、駄目なのかな」
 うつむいたまま黙り込んでしまった。
「それでいいのなら、駄目じゃないけど。でも、俺があずさと別れた意味、もう少し考えた方がいいと思う」
「え?」
 とっさに顔を上げたら思いもかけず圭吾の顔は目前にあって、視線が私を射た。
「気持ちって、止められないものだから。あの頃の俺は、あずさにもっと踏み込みたかったんだ。そしてあずさには俺だけを見てもらいたかった。でもそれを強制することは出来なくて、結局俺のほうがかんしゃく起こして終わらせてしまったんだけど」
 そこで言葉を切ると、圭吾が一瞬だけ昔を思い出すように顔をゆがめる。けれどまたすぐに目線を合わせ、私に疑問を投げかけた。
「あずさがそんなふうにさ、本気で好きになれる相手って倉沢以外にいるのかな」
「圭吾……」
 戸惑ってそっと呼びかける。圭吾はゆっくりと立ち上がった。
「今日会えて、良かった。あずさには酷いことしてしまったから、ずっと気になっていたんだ。これは俺からのアドバイス。ちゃんと考えろよ」
 きっぱりとした口調でそう言うと、圭吾はコーヒーを飲み干して、ゴミ箱へ放り込む。
「それじゃ、もう帰るから」
「圭吾」
 ためらいがちに声をかけると、圭吾はこちらを振り返った。
「また、会える? ……友達として」
 気が付くと、私は自分の缶コーヒーを握り締めていた。緊張する。圭吾がなんて答えるか分からなかったけれど、今の自分の気持ちは伝えておきたかった。
 圭吾の彼女では結局いられなかったけれど、でも友達でいたいんだ。本当に。
 圭吾は一瞬驚いたように目を見開いて、そして大きく笑顔に変わった。
「今度、勝久も誘って遊びに行こうぜ。倉沢は、抜きで」
 その茶化した言い方にほっとして、思わず笑いが漏れてしまう。
「うん。分かった」
「またな」
「また」
 小さく手を振ると、圭吾はもう一度にっこり笑ってから背を向けた。どんどんと歩み去って、後姿が小さくなる。私はその姿が見えなくなるまで、ずっとベンチに座って見つめていた。
 ありがとう、圭吾。
 大きく息を吐いて、ようやくコーヒーを飲み始めた。
 三年という月日を経て、友達でいてくれることを選択してくれた圭吾。そんな彼からの疑問は、軽く流すことが出来ない重みがある。

 私が俊成君以外に、本気になれる相手。

 幼馴染は自分にとって大切な存在だけれど、でも恋人とは違うって分かっている。私にだっていつかそんな人は現れるんだと思っている。でも具体的にどんな人と出会いたいかを考えると、そこでぱたりと止まってしまう。

 私が好きになる人は、一体どんな人なんだろう。

 ひどく他人事のように思えた。