二人の会話

第三部  二人の会話


その十


 前夜、朝の五時にセットしてあった目覚まし時計はきっちりと鳴り響き、私は寝ぼけたまま音を止めた。さすがにこの時間はまだ薄暗いけれど、でも朝の光はぼんやりと差し込み始めている。
 顔を洗って着替えて時間を確認すると、五時半ちょうど。そろそろかなって思いながら玄関まで行くと、まるで見計らったかのように控えめなノックの音が聞こえた。
「すごい。時間ぴったりだ」
 ドアを開け、お早うも言わずにつぶやいた。目の前に立つのは、俊成君。
「こんな時間にチャイムは鳴らせないだろ」
 もっともな意見にそれもそうかとうなずいて外に出ようとしたら、コロに大きくワンと吠えられてしまった。
「散歩に連れて行けって言ってる」
「連れてけよ。いいよ。俺もコロと一緒がいい」
 そういって、がしがしとコロを撫でる。なんだかそこには男の友情が出来上がっていた。
 あの夜から約三週間。今日は俊成君が出発する日だ。

 コロを連れて外に出て、しばらく無言で二人と一匹、歩いていた。俊成君の背中にはリュック。片手に紙袋は持っているけれど、これから旅立つにしては身軽すぎる。
 兄弟が同じ地方で生活始めるのに、別れて暮らす必要は無い。おじさんの意見から、俊成君はカズ兄と同居することになった。地方の特権、低めの家賃で広めの部屋という生活を楽しんでいたカズ兄にはちょっと可哀想かなと思うんだけれど、そんなことはなかったみたい。受験するって宣言された時点で、カズ兄は部屋の片付けを始めていたらしい。心配性で弟思いのお兄ちゃんを持つと、こういうとき下は楽だ。お陰で家探しとか引越しとかで時間を取られること無く、こうしてぎりぎりまで俊成君はこっちに残っていられた。
「その紙袋って、なに?」
 我慢し切れなくて、聞いてしまう。
「母さんとユキ兄作、我が家の惣菜。カズ兄に手土産だって」
「いいなー」
 大体予想はついていたので、間を置くことなく呟いてしまった。「くら澤」の味はおじさんが作ったものだけれど、おばさんの作るお惣菜だって家庭的で美味しいんだ。ユキ兄のお惣菜の味はホテルにいたせいなのか、繊細な感じ。普段の性格と味付けのギャップがあって面白い。
 ついついじっと紙袋を見つめていたら、隣でくすりと笑う声がした。
「やらないよ」
「欲しいって、言ってないもん」
 食い意地が張っているのを指摘されたみたいで、思わずむきになってしまった。しかもさらに追い討ちをかけるように嫌味を言ってしまう。
「なんかこれから子供がお使いに行くみたいだよね」
 うわ。可愛くない。
 自分で放った言葉に軽く落ち込む。なんでこんなときに、こんな憎まれ口叩いちゃうんだろう。
 うかがうように俊成君をそっと見つめたら、何も言わずにぽんぽんと私の頭を撫でてくれた。その反応にほっとする。俊成君と私の距離がちょっと近付いて、彼の腕と私の肩が触れた。

 公園まで差し掛かると、コロは当たり前のように中に向かっていこうとした。毎朝の散歩の時間よりちょっと早いけれど、歩くコースはいつもの道だ。
「散歩じゃないよ、コロ」
「時間あるから、大丈夫だよ」
 そういって、俊成君は先に公園へ入っていく。
 犬の散歩もなんとなく時間帯があって、この公園の場合、朝は六時くらいからいつもの犬と飼い主さんたちが現れてくる。まだ六時前、そして休日のこの時間はぽっかりと空いていて、私たち以外は誰もいなかった。
 ベンチに腰掛け、コロからリードを外す。尻尾をぶんぶんと振って一緒に走ろうと誘うコロの頭を撫で、語りかけた。
「ボールもってくれば良かったね」
 ボールの言葉にコロはぴくりと反応したから、つい笑いながら尻尾の付け根を軽く叩いた。
「ごめん。一人でかけっこだ」
 それを合図に走り出す。コロがぐるぐると公園を走る姿を目で追いながら、私はゆっくり俊成君にもたれかかった。手がそっと伸ばされて、自然に二人の指が絡み合う。
 ただの幼馴染から関係が変わり、その後何度か俊成君を受け入れた。初めてのときはなんだかよく分からなかったりただ痛かった感覚も、馴染むうちに気持ちよさに変わっていく。人の体って、不思議だ。
 けれど、やっぱりこうして触れ合うのはどきどきする。どきどきして、心臓を掴まれた様になって、顔をあわせることが出来なくなって目線が落ちる。それでも今までと違うのは、どきどきするのと同じくらいに安心もするってこと。触れ合った肌と肌からお互いの気持ちが滲み出すみたいに伝わって、幸せになる。
 セックスって言葉、とても生々しいのに機能しか捉えてない感じで、自分たちの行為にそれを当てはめるのはまだ戸惑いがあった。エッチって言葉もなんだか妙に甘ったるくて違う気がするし。そう考えていたら、肌を重ねるって言葉が一番しっくり来るなって思った。なんか、時代劇とか演歌とかに出てきそうな言葉だけれど。
「今だったら、氷雨とか天城越えとか歌えそうな気がするんだ、私」
「なんだよ、それ」
 訳が分からないといった口調で、俊成君がつぶやいた。私はくすくすと笑って、さらにもたれかかる。つないだ指に力が込められて、きゅって握られた。やっぱり、幸せ。
 ベンチからぼんやりとあたりの景色を見ていたら、桜の木が目に入った。まだ明けていない早朝の空気の中、ところどころに白い花が浮かんでいる。
「桜、咲いたね」
「三分咲きかな」
 確かに今年一番の開花宣言は数日前に出ていたけれど、北上してここら辺にくるにはまだ日があった。これでも早い方なのかもしれない。
「せっかくなら、桜の木の下で写真取りたかったね」
 唯一のツーショット写真、小学校入学式後のあの桜の写真を思い出し、つぶやいた。
「カズ兄が言っていたけど、あっちではゴールデンウィークになってもまだ桜残っているところもあるって。観に来ればいいよ」
「うん。……でも、今年はこっちに戻ってくるでしょ?」
 もたれていた体を離し、思わず俊成君を見つめてしまう。例年の話をしているだけだって分かっているのに、つい不安になってしまった。そんな私の表情におされ、俊成君がまばたきをする。
「大丈夫。戻ってくる。勝久と太田にも会う約束させられたし」
 言いながら、俊成君の表情がなんだか苦くなっていった。多分今、俊成君の頭の中では、二日前の情景が浮かんでいるんだろう。久しぶりにというか、卒業式以降初めて美佐ちゃんと勝久君の四人で会ったんだ。そのときの事を思い出し、私は笑い出してしまった。


「ふぅーん」
 二日前、待ち合わせ場所に現れた私と俊成君を見て、そう切り出したのは美佐ちゃんだった。
「ふぅん。良かったじゃない」
 あごをちょっと上げて、細めた目と、組んだ腕。だから美佐ちゃん、美人がそんな態度取ると、迫力増して怖いんだってば。
「お陰さまで」
 隣でぽつりと言い返すその声に、びくりとする。俊成君、このタイミングでその台詞は、決して友好的じゃない気がするんだけれど。
 ひとり焦りながら二人の顔を交互に見つめていると、こらえ切れないといった様子で吹きだす人がいた。勝久君だ。
「ほら、あずさが怯えているぞ」
 言われた途端、美佐ちゃんの腕が伸びて私の腕をがっちり掴む。
「あずさを泣かせたんだから、そうそう許すなんて出来ないでしょ」
「み、美佐ちゃん」
 それは恥ずかしいから、止めてーっ。
 思わず真っ赤になってうつむいてしまった。卒業式の日、泣いてしまったのはひとりで勝手に盛り上がってしまったからで、何でそうなったのかといえば私が最後まできちんと俊成君の話を聞かなかったからで、なんで途中で逃げ出しちゃったかというとひとりで勝手に盛り上がっちゃったからで、ああもう、ループしているよ。
 一気に今までの事が思い出されて、焦ってしまう。自分の感情をかき乱し続けている人と、それをなぐさめ見守ってくれていた人が同時にいるんだ。これで平然としている方がどうかしている。
「分かっているよ」
 ふわっと頭に手の重みが乗って、俊成君の声が耳に響いた。驚いて顔を上げると、俊成君が真っ直ぐ美佐ちゃんを見つめている。
「とりあえず、もう泣かせるような真似はしない」
 きっぱりと言い切る態度に、一瞬何の話をしているんだか分からなくなってしまった。そしてようやく自分の事を言われているのに気が付いて、思い切りうろたえる。まさかこんなところでそんな宣言をされるとは思っても見なかった。ただでさえ赤くなっていた顔が、さらに熱を帯びてしまう。 
 けど、宣言された方の美佐ちゃんはといえば、口がぽっかり開いて、こう言っただけだ。
「あ、そう」
 その反応は、なんなの美佐ちゃん。
 二人があんまりにも淡々としているから、その間でおたおたしている自分が取り残されたようになってしまった。仕方無しにまた二人を交互に眺めていたら、またしても勝久君に吹きだされてしまう。
「やっぱ、あずさで正解だよ」
「なにが?」
 分からなくて聞いたのに、勝久君は笑い続けるだけだ。
「けど、こうまで俊の態度が違うと、歴代の彼女たちに失礼って気もするけどな」
 その言葉にどう反応していいんだか分からなくて、救いを求めるように美佐ちゃんを見つめた。
「確かにね」
 勝久君の言葉にうなずくと、美佐ちゃんは息を吐き出す。そうしてから私たちに向かって微笑んだ。
「ま、いいんじゃない。おさまるところにおさまったってことで」
 その優しい表情にほっとして、それから訳も無く嬉しくなった。最近の美佐ちゃんを思い出すと、同じ笑顔でも私を安心させるためのものだったりして、もうちょっと違う感じのものだった。こんな笑顔、久しぶりだ。
「ありがとう」
 素直な気持ちでそう言ったら、そろって二人にじっと見詰められてしまった。
「な、なに?」
「あずさ、可愛くなったね」
「へぇっ?」
 思いもかけない言葉に、つい声がひっくり返ってしまう。
「俊で正解だったんだよ」
 うんうんってうなずいて勝久君がつぶやくから、とっさに隣に立つ本人を見つめてしまった。
「もういいだろ。行こう」
 俊成君はふいに顔をそらし、ひとり歩き出す。
「照れてる」
 ぼそっと勝久君が指摘したけれど、もう俊成君は反応しないことに決めたらしい。私も笑いながら後に続く。美佐ちゃんは俊成君に対してすっかり意地悪モードになってしまったらしく、そんな後姿に声をかけた。
「倉沢、ゴールデンウィークには帰ってくるんでしょ? また会うからね、四人で」
 嫌とは言わせないからね。って台詞が聞こえてきそうなくらい、きっぱりとした言い方だった。何か言い返すかな? そう思ったけれど、俊成君は案外あっさりと返事をする。
「分かった」
 短い答えだけれど、嫌がってはいないみたい。こっそりと美佐ちゃん勝久君と目配せして、もう一度笑いあった。


「誰か来た」
「え?」
 つい思い出にひたっていたら、俊成君の声で現実に引き戻された。
「コロ、戻っておいで」
 慌ててコロを呼び寄せる。ある程度走り回って満足したのか、素直にコロはやってきて、私の前で立ち止まった。
「良い子だ」
 頭を撫でてリードをつける。隣で俊成君が腕時計を見て時間を確認していた。
「そろそろ行く?」
「うん」
 うなずいて、俊成君が立ち上がる。私たちは駅に向かって歩き出した。
 俊成君が手を差し出すから、右手をつなぐ。左手にはコロのリード。歩きづらいかなって思ったけれど、休日早朝の商店街は人気が無く、歩道をすれ違う人もいなくて問題は無い。気が付けば、地下へともぐる駅改札への看板が見えてきた。つい手を握るその力を強めてしまう。
 俊成君はそれには応えず、かわりに唐突に話しをはじめた。
「思い出したことがあるんだ」
「え?」
「去年の夏休みのこと。初めてカズ兄のところに遊びに行って、大学の周りをひとりで散歩してさ」
 思い出しながら話すから、ぽつぽつとした口調になっている。私はなにを言いたいのか分からずに、ただ聞いているだけだ。
「塀の脇に空き地があって、雑草とか生えているんだけれど、そこの一角にカンナが植わっていたんだ」
「カンナ?」
「うん。赤いやつ。その風景がなんか良くって。あれ、あずにも見せてやりたいなって、なんとなく思った」
 その途端、私の中で子供の頃のあの夏の日がよみがえった。
 赤というより朱の色をした、真ん中から徐々に橙、黄色と色が変わる夏の花。立ち姿が真っ直ぐで、炎のようで。俊成君と二人、あの花を眺めていた。大切な二人の思い出。
「大学のこととかあずのことを真剣に考えるようになったのはその後戻ってからだけれど、今思うと、多分あれが最初だ」
 俊成君はそこまで言うと立ち止まり、私と向き合う。気が付けばもう駅の階段まで辿り着いていた。
「だから、夏は一緒にカンナを見よう」
 しばらく二人何も言わず、ただ見つめあった。
「一緒に、見たいな」
 震える声で、それだけをつぶやいた。
 俊成君と幼馴染でよかった。こうして二人、思い出を共にしている。
「うん。見よう」
 あのときと変わらない笑顔で、俊成君がうなずいた。つないだ手を愛おしむように、指が絡まりぎゅっと握り締められる。お別れのときが近付いていた。
 見送りはここでおしまいだから。
 こんな家の近くじゃなく新幹線に乗るまでって私は言ったのに、それを断ったのは俊成君。私を一人で帰したくないって主張した。だからコロも連れてきた。
「あず」
 呼びかけられて、抱きしめられた。気配だけでうながされて、ごく自然に唇が触れ合う。一瞬びくりと震えてしまったけれど、でももう止められなかった。触れ合うだけのキスを、何度も何度も繰り返す。でも、キスをすればするほど別れたくなくなる。追いすがってどこまでもついていきたくなる。我がままだって分かっているけど。
 そんな私たちを諌めるように、ひまをもてあましたコロが動いてリードが引っ張られた。途端にようやく我に返る。
「と、俊成君」
「ん?」
「……恥ずかしい」
 力が抜けてしまい、腰がふらついて体を預ける格好になっていた。
 冷静になって周りを見渡せば、こんな駅前、たとえ交通量が少なくってもやっぱり車とか通りの向こうを渡る人は存在する。お互いさまなんだけれど、恥ずかしさの反動からつい上目遣いで抗議をした。俊成君ははぐらかすように視線をさまよわせ、小さくうなった。
「俺だって恥ずかしいよ。でも」
 すっと私に目を合わせると、私の髪を撫で上げる。
「泣かれるより、ましだ」
 その柔らかな表情に、逆に泣きたくなる。最近気が付いたんだ。私、俊成君に関連したことばかりで泣いている。
 でも、今は泣く場面じゃない。
 静かに息を吐き出すと、私はゆっくりと俊成君から体を離した。
 俊成君は私をもう泣かせないって、宣言してくれた。だから微笑んでいたい。
「大丈夫だよ」
 ありったけの気持ちを込めて、精一杯の笑顔を浮かべてみる。
「ゴールデンウィーク、待ってるね」
「うん」
「夏はそっちに遊びに行く」
「うん。待ってる」
「私も」
 私も、待ってる。
 もう一度、俊成君を見つめてから微笑んだ。
「行ってらっしゃい。気をつけて」
「……行ってくる」
 俊成君が私の頬をそっと撫でてから、階段を下りていった。
 一段降りるたび、その距離の分だけ少しずつ、俊成君が離れてゆく。踊り場を経て次の階段へ曲がる直前、俊成君の視線が私を探す。慌てて手を振ると、彼の口の端に笑みが広がり、そしてそのまま姿が隠れた。


 俊成君が去った後も、それからしばらく気が抜けたようにただ階段の前で立ち尽くしていた。
 動こうという考えが浮かんでこない。けれど電車がやってきたのか、階段を数人の乗客が上ってきた。そのときになってようやく気付き、私は慌てて横にどく。その拍子に、ぱふっとコロの体が足に当たった。
「ごめん、コロ」
 何も分からず、無邪気にコロが尻尾を振る。その無心に慕ってくる瞳に癒された。やっぱり私、新幹線まで行かなくて正解だったのかも。
 横にはどいたものの、まだ立ち去りがたくて、でももう階段を見ていたくなくて、コロのふかふかとした耳をただ眺めた。
 多分これから先、私たちの間には色んなことが起こるんだろう。
 そんな事を考えていた。
 四年の間、俊成君も私も立ち止まってはいられない。環境だけじゃない。心だって変化して行く。俊成君は私に待っていて欲しいっていったけれど、俊成君だって私を確実に待つ保証はどこにも無いんだ。

 でも、それでも、待っていたい。

 リードを持つ手に力がこもった。
 俊成君がカンナの花を覚えていてくれたから。あの頃から、ううん、生まれたときから二人の関係が始まっていたんだって思えるから、だからこれからの四年間も大丈夫だって思えてくる。
 いつの間にすっかり明けて広がる青空を見上げ、深呼吸をする。
「そろそろ、行こうか」
 時間が過ぎるにしたがって、少しずつ人の量も増えてゆく。いつまでもここに立ち止まっているわけには行かない。
 コロに声をかけると背筋を伸ばし、私は歩き出した。
 
 離れていても、俊成君とはずっと傍にいる気がするんだ。俊成君が好きだから。好きだから離れていける。最後に戻る場所は、いつだって俊成君の傍だ。
 そして二人、これから新しい日をはじめよう。

- 終わり -