二人の会話

第三部  二人の会話


その七

 
 階段を下り廊下を通って、そして今、俊成君が私の目の前に立つまでを、まじまじと見つめていた。
「なに?」
 いつもの愛想の無い顔で、俊成君がたずねる。
「おばさんは?」
 愛想の無さに対抗するように、私も表情を強張らせ聞いてみた。
「店に行った」
 それだけ言うと俊成君はふいに困ったような顔をして、私の顔をのぞき込む。
「とりあえず、上がれよ」
 その言葉に、俊成君の表情に、私の頭はようやく少しずつ動き始める。
 そうか、俊成君かぁ。
「これ、お祝いのカボチャ。大学受かったって聞いたから。食べて」
 ぐいっと盛鉢を突き出して、無理やり俊成君に手渡す。戸惑うように受け取る彼を見て、私はじりじりとあとずさった。
「じゃあ、そういうことで」
 言い置いて、一気に走り去る。
「ちょっと待てよ、あずっ」
 俊成君が呼びかける声が後ろから聞こえたけれど、振り向かない。
 まるで一昨日の卒業式を繰り返しているみたい。だから駄目なんだってば。会いたかったけれど、会いたくて恋しくて寂しかったけど、でも三日くらいじゃ私は何も変わらない。おんなじことを繰り返してしまう。
「……おめでとうって、言えなかった」
 あっという間に家に着いて、ドアノブに手を掛けてつぶやいた。今家に帰ったら、おかあさんに「どうだった?」って聞かれるに決まっている。
 小さく首を振ると、私はゆっくり公園まで歩き出した。


 公園のブランコに腰掛けると、夜空に向かって白く息を吐く。
 もう俊成君、帰ってきたんだ。まだ夕飯前なのに。新幹線の力は偉大だ。
「でも、遠い」
 座る位置を直すように足を投げ出したら、ブランコがキィっと音をたてて揺れた。その無機質な音が冷えた夜の空気に染み込んで、余計に悲しくさせる。
 じっと月を見ていたら、白いものが降ってきた。雪だ。
 手のひらで受け止めるけど、あっという間に溶けて消えた。積もる雪ではないけれど、どうりで空気が冴えざえとしていたはずだ。
 鼻の頭とか頬のてっぺんとか、どんどんと冷えてゆくのは感じていたけれど、なんだかそれが心地よい。今の自分には合っている気がした。
 頭を冷やしたかったから。ついでに心も。
 俊成君の事を考えると、冷静でいられなくなる。うろたえて、みっともなくあがいて、結局今みたいに逃げ出してみたり怒鳴ってみたり。なんだか情けない姿しかさらしていない。清瀬さんのこと、抜け駆けしようと姑息なことも考えた。おばあちゃんとの約束を今更引き合いに出して、俊成君に詰め寄った。恋って全然きれいな感情じゃない。自分の中の欲望とか感情とか、全部噴出している。
 合格おめでとうって言えないのは、俊成君と離れてしまうのが寂しいから。
 一方的に怒鳴って逃げてごめんなさいって言えないのは、傷付いた自分を分かって欲しいから。
 このままじゃいけないって分かっている。俊成君が行ってしまうまでに仲直りをして、笑顔で送り出してあげなくちゃ。
 うつむいて、ぎゅっと目を閉じた。この寒さが自分の中に染み込んで、すこしでも熱を奪ってくれればいい。
「なにしてるんだよ」
 ざりって砂を踏む音がして、頭上から声がした。
「……別に」
 今一番会いたくて、でも会った途端に私のほうから逃げ出してしまった人が現れて、反射的に心が躍った。けれど、街灯に照らされた俊成君の表情はあからさまにむっとしていて、私はぶっきらぼうに答えながらも怯えてしまう。
「こんなところにいたら、冷えるだろ」
「すぐ帰るよ」
「じゃあ、送る」
「いい」
「あず」
 俊成君の手が伸ばされて、私の頬にそっと触れた。
「こんなに、冷たい」
 そういう俊成君の顔が苦しそうで、私は驚いて彼を見つめた。
 何で、そんな顔するんだろう。
「ごめんな、さい」
 なんだかよく分からないけれど、気が付くとそう言っていた。今の今まで、自分の感情しか考えていなかった。でも、私がしてきたことで俊成君をこんな顔にさせるのなら、謝りたい。何がいいとか悪いとかじゃなく。
 俊成君はそんな私をしばらくじっと見つめると、おもむろに短く言った。
「二時間二十四分」
「え?」
 意味が分からず、聞き返す。
「最短の、新幹線の乗車時間。確かに一番遅いのは三時間十四分かかるけど。でも最短に乗れば三時間は切る。」
 言い切られた後も、結局何が言いたいのかが良く分からなくて返事が出来なかった。
 つまりは、「新幹線で三時間」ってフレーズは違うってことなんだろうか。
「でも、それって新幹線の話でしょ? 家からは三時間以上かかるじゃない」
 どうしても突っ込まずにいられなくて、そう言った。なんだか自分が美佐ちゃんになった気分だ。俊成君は困ったように眉を寄せると、軽く息を吐き出す。
 その仕草に余計に責め立てている様な気になって、罪悪感が増した。
「あの、……今更かもしれないけれど、おめでとう。合格」
 謝るのも違う気がしたので、かわりに言われたら嬉しいだろう言葉を言ってみた。けど、なんとか口に出したのに、いかにも取って付けたような言い方になってしまう。
 案の定、俊成君もただ黙って私を見つめているだけだ。ただひたすら見つめられて、どんどん居心地が悪くなって、何か話さなくちゃって焦ってきた。
「寂しくなるよ、私」
 焦った挙句、出てきた言葉はこれだった。
「俊成君にとってはたいしたこと無いのかもしれないけれど、私は俊成君と離れるのが寂しいよ。おばあちゃんのこと、持ち出してごめん。でも、突然聞いて動揺してたから。辛いんだ、離れるのが。だから、出発の日は泣いてしまうかも知れない。許して」
 そこで言葉を切ると、うかがう様に俊成君を見つめる。約束は無効だって言われたときみたいに、私の感情はばっさりと切られてしまうんだろうか。
 俊成君は軽く息を吐き出すと、目の前の手すりに寄りかかった。
「俺の行く大学、カズ兄の赴任先の近くにあるんだよ」
「そうなの?」
 突然の話の転換に戸惑いながらも、思わず反応してしまう。カズ兄、そんなところに転勤していたんだ。
「去年の夏休み、カズ兄の住んでいるところへ遊びに行って、あの大学を見つけた。雰囲気が良くて、試しに学部調べたら自分の希望しているのがあって。そのとき、あずの顔が浮かんだんだ」
「私?」
「今までずっと近くにいたけど、離れたらどうなるんだろうって思った」
 話を続けていくうちに、俊成君の表情は落ち着き、柔らかくなっていく。それに反比例して、私のほうはどんどんと混乱していくばかりだ。俊成君が何を話そうとしているのかが分からない。
「彼女は?」
 とりあえず、思いついた事を聞いてみた。
「え?」
「いたでしょ、彼女」
 確認するように聞いてみたら、俊成君は淡々と言い切った。
「考えてなかった。どっちみち、それからクリスマスには終わったし」
 あっさりもいいとこだ。本当にこの人にとって女の子って、どうでもいい存在なんだな。って、
「……なんで、彼女じゃなくて私のこと考えたの?」
 期待しちゃ駄目だって、心の中で自分をいましめる。でもまだ心は弱ったままだから、つい自分の都合の良いように解釈したくて、すがるように見つめていた。俊成君はそんな私の視線を正面から受け止めて、やはり淡々と答えた。
「傍にいたかったから。付き合って興味が無くなったら別れるような、あずはそんな存在じゃなかったから」
「どういう、意味」
 聞いた声がかすれていた。どきどきしている。でも、俊成君が何を考えてこんな話をしているのかが分からないから、緊張もしている。
 俊成君は言葉をさがすように眉を寄せると、ふいに後ろを振り返り、入り口の横に植わっている桜を指差した。
「あそこで、あずが泣いていたんだ」
「え? いつ」
「小学校の入学式のとき。俺と一緒のクラスになれなかったって、泣いていた」
 つられて桜を眺めながら、私はそのときの事を思い出そうとしていた。
 入学式、桜の下。写真なら一枚ある。私と俊成君が二人で写っている唯一の写真。そういえばあの写真の中の私は顔をしかめて肩をいからせていて、なんだか不細工だった。お陰で滅多に見返すこともなく、入学式のことも忘れてしまっていたんだけど。
「泣いていたから、あんな顔だったんだ」
「やっぱり忘れている」
 ため息ついて、俊成君がつぶやく。その傷付いた表情に戸惑った。
「あのとき、約束したんだ。ずっとあずの傍にいるって。一生、傍にいる。ばあちゃんとした約束なんかよりも、あずとした約束の方がずっと早い」
「……え?」
 傍にいるって、一生って、誰が? 誰の傍に?
「それなりに真剣な、自分にとっては告白のつもりだった。でも小学校始まればあずはさっさと俺のこと忘れてくれるし、中学では小林と付き合いだすし」
 あれ?
「もしかして、俊成君の唯一の告白って」
 恐る恐る聞いてみる。結果は相手に本気にされなかったって、もしかして……。
 でも俊成君は何も言わず、どこか拗ねたような表情で私を見つめるだけだ。傷付いて、拗ねて、でも真っ直ぐ私を見ていて。
 どくっと、自分の心臓の音が聞こえた気がした。
「ごめん」
 間の抜けた謝りを口にする。それ以上何か言うことが怖かった。答えを急いて失敗してしまうような、そんなことはしたくなかった。
「あずを責める訳じゃないんだ。それ言ったら、俺のほうが色々と好き勝手やっていたわけだし。」
 緊張で強張ってしまう私を見て、俊成君は安心させるようにふっと微笑んだ。
「傍にいるって自分から約束しておきながら、それがどういうことなんだか分かっていなかった。幼馴染だもんな、俺たち。一生近所付き合いしていれば、それだって傍にいるってことになる。そういう付き合いでもいいのかなって自分を納得させていた。だから、進学模試の結果見てあそこに決めたときも、大学の四年間くらい離れていても大丈夫だと思った。距離は遠くなるけど、それで二人の関係が変わるとも思えないって。でも、違った。分かっていなかったんだ、俺」
 言葉を選ぶように丁寧にゆっくりとそこまでを言うと、俊成君は寄りかかっていた手すりを離れ、一歩私に近づいた。
「傍にいたいって思う気持ちは、どこから来ているんだろう。他の子と付き合ってもたいして面白くも無いのは、何でだろう。あずから離れるって決めてから、今まで考えないようにしていたこと、考えるようになっていた」
 俊成君は私の前まで来ると腰をかがめ、ブランコに座る私と目線を同じにして、じっとこちらをのぞき込んだ。
「俺、あずの気持ちをまだ聞いていない。でも新しい約束をしたいんだ。四年間待っていて欲しい。俺、四年経ったらあずを迎えに行くから」
 真剣な表情。真剣な声。私は何も言えずにしばらく押し黙る。でも、どうしても確かめたいことがあって、ブランコの鎖を握り締めながらゆっくりと口を開いた。
「それは、幼馴染として?」
 たずねる声が震えている。怖くて、俊成君の言葉を素直に受け止めることが出来ずにいる。期待が空回りしないよう、心を守ろうとしている自分がいた。
 俊成君はそんな私の目を真っ直ぐ見つめたまま、即答する。
「違う。あずが好きだから。だから迎えに行く」
「でも、四年も経てば、気持ちも変わるかもしれないよ。俊成君は不安じゃないの」
「不安だけど、でも多分あずだから、離れてゆける。距離が離れていても、独りじゃないって思えるんだ。ずっと傍にいる。駄目か?」
 静かな口調のくせに、強く、深く、俊成君の言葉は私の心に直接響く。私は俊成君から目を反らさず、しばらく見つめた後一言つぶやいた。
「俊成君は、意地悪だ」
 その途端、両目から涙がこぼれてしまった。
 私が、私のほうから、俊成君のもとを離れるなんてあり得ない。いつまでも待っている。俊成君が私の事を思ってくれるように。
 まばたきもせずに涙もぬぐわず、ただあふれるままにして俊成君を見つめていた。俊成君はそんな私を見つめ返すと、黙って私の肩に手をかける。きつく結んだ口元。怖いくらい真剣な表情。身動きもせずにそのまま見ていると、彼の顔が近付いて一瞬後に唇が触れ合った。
 あまりにとっさの出来事で、何が自分の身に起こったのか良く分からなかった。俊成君も、自分がそんな事をするとは思わなかったらしい。はっと我に返ると、私が状況を飲み込む一歩手前でぽんと抱きしめて、自分の顔を見せないように隠してしまった。
「と、俊成君っ」
 一気にバランスが崩れ、ブランコが揺れる。たまらずに俊成君に向かって重心を傾けると、すくい上げるように抱きかかえられ、立ち上がらされた。
「ごめん」
 そう言う俊成君の鼓動が早くて、私を抱きしめる腕がきつくてちょっと苦しい。
 そんな動揺している俊成君を感じているうち、じんわりと幸福感で満たされていった。
「俊成君。待っているから。ずっとずっと、待っているから」
 俊成君はそれには答えず、そっと力を抜いてあらためて私を抱きしめた。大きく包まれるような感覚に、私も素直に体を預ける。座る人のいなくなったブランコが抗議するようにキイキイと音を立て、それはそのうちゆっくりになって止まって消えた。
 ずっとこのまま、ただ黙って抱きしめ続けてもらいたい。
 セーターに埋もれ、温もりを受けながらそう願う。けれど少し考えて、俊成君の鼓動に耳を当てて私は言った。
「これから、いっぱい話をしよう」
 俊成君が自分の気持ちを話してくれたから。私も自分の気持ちを話さなくちゃかなって思った。
「私たち、同じところでぐるぐる回っていた気がする。俊成君の考えていること、思っていること、私は全然分かっていなかったから。不安だったの。だから、これから聞かせて」
「……分かった」
 耳元で、吐息と共に返事が聞こえた。
 俊成君の声だ。
 俊成君が私の事を抱きしめて、私の話を聞いてくれる。
 嬉しくって、また泣いてしまいたくなったから、私は慌てて鼻をすすった。
「俊成君、ずっと傍にいてね」
「うん」
 簡単なただのうなずきなのに、私にはもうそれで十分だった。

 長いようで短い幼馴染の期間が、こうして幕を閉じた。