二人の会話

第三部  二人の会話


その八

 
 幸せだって実感すると、何でさらにもっと次の幸せを欲しくなってしまうんだろう。
 俊成君に抱きしめられ、ただ体を預けているだけだったけれど、少し経って落ち着くとそれだけでは寂しくなった。そろそろと背中に腕を回し、私も抱きしめ返す。俊成君が身じろいで、また私を抱きしめる腕の力がきゅっと強くなった。
 私のしたことに反応してくれる。単純なことなんだけれど、でも嬉しい。
 嬉しいけれど、このままでいたらそのうちお互いがぎゅうぎゅうと締め上げることになっちゃうよ。
 気持ちが落ち着いたせいなのかな。そんな馬鹿な事を考えて、思わずくすくすと笑い出してしまった。
「なに?」
 俊成君の声が耳元で聞こえて、どきりとする。まだこの状況に慣れていなくて、声とか吐息とか、そんな些細なものにびくついてしまう。
「なんでもない」
 そう言いながら、目の前の肩におでこをぐりぐりとこすりつけた。
 私、この人に抱きしめられているんだ。
 実感して幸せな気分になるから、甘えたくなる。密やかに、俊成君が笑う気配がした。
「あず」
 呼びかけられてゆっくりと顔を上げた。キスをされてからずっと、顔を上げることが出来なかった。ひどく照れくさいけれど、俊成君の顔を見たかったから我慢する。けれど見上げたそのすぐ目の前に顔があって、想像していたよりも近い距離に思わず動揺してしまった。
 俊成君も一瞬大きく目を見開いたけれど、すぐに柔らかい表情になって私を見つめる。
 ……あー。なんか、駄目かも、私。
 照れくささのゲージがあっという間に最大までいってしまい、こらえきれずに目を伏せた。でもその途端、俊成君の顔がさらに近付いて、唇と唇が重ね合わさる。
「と、俊成君っ」
 さっきよりも時間が長くて、明らかに意思を感じさせるその行為に、思い切りうろたえた。でも仕掛けてきた本人は余裕で、いたずらが成功して楽しくなっているといわんばかりの表情だ。
「不意打ちは卑怯だよ」
 悔しくて、軽く睨み付けながらそう言ったら、こらえきれないように吹きだされた。自分ばっかり私を翻弄して、ずるい。
 恥ずかしさの反動もあってあからさまにむっとした表情をしていたら、まだ笑いを残したままの俊成君がふいに私の目を真っ直ぐ見つめ、短く言った。
「あずを家に帰したくない」
 微笑みながら言っているのに、私をのぞき込むその目は真剣だ。真剣に、なんだろう、求めている目。
 瞬時に俊成君が欲しがるものを理解して、私の鼓動が高まった。
 さっきまで、俊成君とまともに話すことさえ出来ないって思っていた。今ここに至るまでの展開が速すぎて、どこか追いついていけない自分がいる。
 でも、
 耳たぶまで真っ赤になっている自分を意識しながら、心の中でうなずいた。
 でも俊成君だったら、いい。
 私を包むこの温もりから離れたくなくて、どうしても落としがちになる視線を上げ、勇気を奮って目の前の人を見つめ返した。
「私も、……帰りたくない」
 俊成君みたいに微笑みたくてきちんとやってみたはずなのに、変に力が抜けてる部分と緊張している部分が入り混じり、へらっとした笑いになってしまう。
 私、変じゃないですか?
 慌てて自分に突っ込みを入れるけど、もはやそんな程度じゃきかないくらいに恥ずかしい。照れたお陰でただでさえ赤くなってる鼻とか耳たぶとか末端神経に一気に血が巡って、しもやけみたいにじんとしびれる感じがした。
 どう考えても可愛くない顔しか出来ていないはずなのに、俊成君は目を細めて私をしばらく見つめると、またぎゅっと抱きしめて耳元でささやく。
「うちに行こう」
「……うん」
 手をつないで、指と指を絡めて、私たちは無言で倉沢家に向かって歩き出した。


 我が家の前を素通りし、倉沢家へ辿り着くと、玄関が少し開いていた。たたきを見ると靴が散乱し、下足箱の上にさっき私が持ってきたカボチャの煮つけが無造作に置かれている。
「これ」
 一通り見渡してから問いかけると、俊成君がふいっと目を反らしてしまう。
「慌てていたんだよ」
 ちょっとぶっきらぼうなその言い方に、思わず小さく笑ってしまった。
 とりあえず靴を揃えて家に上がると、盛鉢を台所へもっていった。俊成君は玄関の鍵を閉めている。その金属音に、妙にびくついてしまった。緊張してきているんだ、私。

 俊成君は戸締りを済ませると、私を呼んで自分の部屋へと案内した。二階の階段上がってすぐ左。中に入ると電気ストーブがつきっぱなしで、暖かかった。
 冷たい外から暖かい中へ。思わず息をつくと、パタンとドアの閉まる音がした。
「冷えている」
 ふいに背後から抱きしめられ、声がする。
 肩に乗る頭の重みとか、背中越しに伝わる体温だとか。さっきまで抱き合っていたけれど、でもこんな密室の中、近い距離で感じる俊成君にまた私の鼓動は早くなる。
「外、寒かったもん」
 顔を上げることが出来ずに、俊成君の腕を見つめた。私のうなじに彼の短い髪がかかって、呼吸をするたびかすかに揺れる。そんな感触にも体がぴくりと震え、どうしてよいか分からずにそっと俊成君の腕に触れた。するとくるりと体を回されて、正面から抱きしめ直されてしまう。
「髪も冷たい」
 髪の毛に指を差し入れ梳いてゆく。そのたび冷えた髪に彼の熱が伝わって、じんわりとした心地よさが広がった。優しい仕草。何度も繰り返すその動作に、昔、頭を撫でられた事を思い出した。
 あのときには、まさかこんなことになるとは思わなかったけれど。
 つい微笑みながら顔を上げたら、俊成君と目が合った。
「あず」
 うながされるように呼びかけられる。
「……うん」
 どきどきしているのに。緊張しているのに。
 それなのに私は自然に眼を閉じて、彼のキスを待っている。そしてそれはやって来て、柔らかな感触が唇に落とされた。
 暖かい。俊成君の唇だ。
 あれほど冷えて凍えていた体が、キスで急速にとかされてゆく。俊成君はそんな私を暖めようとするように、頬や鼻、まぶたやおでこなど顔のいたるところに唇を落としていった。柔らかくって暖かで、でも彼の唇が離れるとそこはじんわりとしびれたようにうずいてくる。
「なんか温泉入っているみたい」
 眼をつむったまま、小さく笑ってそう言ったら、俊成君の動作が一瞬止まった。
「あず、寝るなよ?」
「寝ないよ」
 確かに気持ちよくって、このまま寝ちゃってもいいくらいの気持ちにはなっているけど。
 さすがにそこまで言えなくて黙ったら、私の頬に俊成君の頬がそっと寄せられた。
「まあ、寝させないけど」
 どこか楽しそうな俊成君の声が耳元でして、え? と思った瞬間、耳たぶに湿った感触と軽い痛みを覚えた。
「や、あっ」
 俊成君が私の耳を甘噛みする。
 耳元にかかる息とか、唇の柔らかな感触とか、噛まれるたびにそんなものにびくついて、体を逃がすようにのけぞってしまう。でも止めるつもりは無いようで、もう片方の耳もそっと親指の腹で撫で上げられた。
「んっ」
 左側の耳に、俊成君の指と私の耳がこすれる音が響いてくる。そして右側では俊成君の吐息が。左右の耳から受けるそれぞれの刺激に対応できなくて体をよじったら、右の耳をさらに彼の口元に押し付ける結果となってしまった。
「全部、暖めるから」
 間近でそう囁く俊成君の声がいつもと違う艶を帯びていて、それだけでまた体が震えた。
「と、俊成君」
「ん?」
 焦る私をはぐらかすように聞きかえして一旦離れると、今度は正面から口付ける。優しい、ついばむようなキス。何度もそれを繰り返すうち、少しずつ深くなって、唇のあわさる時間が長くなった。
 頭がぼうっとする。力が、入らない。
 でも俊成君の左手は私の後頭部を支え、右手は耳たぶをもてあそんでいるから、頼りなく腕を掴んでいるしかなかった。
「あず、腰に手を回して」
 唇を合わせたまま、囁かれた。唇の振動がくすぐったい。俊成君が一歩後ろに下がったのを合図に素直に手を前に持っていくと、その分上半身が傾いて密着する。より深く唇があわさった。
「あ……」
 耳をいじっていた指が後ろにずれて、つっと首筋をなぞってきた。その刺激に声を上げると、その瞬間俊成君の舌が私の唇から侵入してくる。
 ぽってりとした厚みの、でもひどくなまめかしい動きの舌が私の歯をなぞってゆく。ゆっくりとこじ開けるように口内に侵入し、上あごをくすぐるように舐めていった。
「ふっ、ん……」
 くらくらする。息が上手く出来ない。すべての神経が口の中に終結してしまったようで、まるで全身を舐められているみたいだ。
 心臓が、ばくばくする。恥ずかしい。恥ずかしい。でも、気持ちが良くて溶けていく。気持ちが、溶けてゆく。
「ん。はぁ……、ん」
 上あごを丹念になぞる俊成君の舌は円を描く様に口内を蹂躙し、奥にちぢこまった私の舌を捕まえると、誘うように絡めてきた。
 どうしよう。どうすればいいの?
 分からなくってうっすらと目を開けると、その瞬間俊成君の瞳とかち合った。強い意志を秘めた瞳。引き込まれて反らすことも出来ない。
 俊成君は首を傾け角度を変えると、今度はさらに口付けを深くし、私の舌を誘い出した。
「んっ」
 意を決して、恐る恐る舌を差し出す。体をきゅっと強く抱きしめられて、それに勇気付けられて、つたないながらもそっと舌を動かしてみた。
「ふぁ、は……」
 私の動きに呼応するようにさらに俊成君の舌はうごめいて、口の中の快楽が増した。
 気持ちいい。どうしよう、キスがこんなに気持ちいいなんて初めて知った。
 むさぼるように激しく絡め、だるく痺れるまで存分に味わうと、俊成君の口は離れていった。名残を惜しむように唾液が糸を引いて、口元に落ちかかった瞬間に舐めとられる。そのままの勢いでもう一回口付けられると、下唇を甘噛みされて、最後にちゅっと音をたてて吸われた。
「も、駄目……」
 完全に力が抜けてしまい、ずるずると床にへたり込む。唇がじんじんする。舌が上手く動かない。
「駄目?」
 楽しそうに微笑みながら、俊成君が目線を合わせるようにかがみこんだ。これ以上ないというくらいの甘い表情。こんな顔をしてあんなキスをするんだと思ったら、恥ずかしくなって目があわせられなくなってしまった。
「俊成君、なんかいつもと違う」
 照れ隠しについ可愛くない事を言ってしまう。でも、感じる違和感は本当だ。確実にこの目の前にいる人は俊成君なのに、優しく甘くされればされるほど、これが現実の出来事なのかわからなくなってしまう。正直言って戸惑っていた。
 俊成君はそんな私の台詞を流そうとはせずしばらく考え込んでから、ああと小さくつぶやいた。
「今、素直になっているから」
「誰が」
「俺。別に自分の気持ちを隠す必要無いだろ?」
 そういってにっこり笑う。その笑顔は保育園のときの、何も考えずにただ一緒にいたころと同じだった。
 ずっと、傍にいる。
 さっきの俊成君の言葉を思い出して胸が震える。別の世界のように思えた彼の甘い表情が、一気に懐かしいものに感じられた。
「あず」
 呼びかけられ、頬を寄せられる。その仕草がなんだかコロにちょっと似ていて、気が付いたら私は俊成君の頭をかかえるように抱きしめていた。
「あず」
 あんまり嬉しそうに呼びかけるから、余計に私が照れてしまう。分かってやっているのかな? 分かってやっているんだろうな、俊成君のことだから。
「あ、あのね」
 彼の呼吸を胸元で受け止めて、自分のやたらどきどきしている心音が聞かれているかもしれないことに気が付いた。なんとか誤魔化したくて、思いついた疑問を口にする。
「もしかして俊成君、キス上手?」
 未知の世界に飛び出して、最初のキスでここまで翻弄されると思わなかった。世の中の人たちはみんなこんな刺激的な事をしてるのかな。よく分からなかっただけなのに、俊成君は勢いよく頭を上げて真っ直ぐに見つめてくる。
「キスしたことあるのか、あずは?」
「ううん。ない、けど……」
「初めて?」
「……うん」
 ファースト・キスだと思っていた圭吾とのことは、この際横に置いてみた。こんなキスした後だと、とてもじゃないけど同列には語れない。でも、今まで何も経験がなかったと言い切るのも、なんだかちょっと悔しい。
 俊成君はそんなふうに揺れる私の表情をじっと見つめると、ふいに優しく微笑んだ。
「あずの初めての相手が俺で、嬉しいんだ」
「俊成君……」
「優しくしたい。気持ち良くなって欲しい。その顔を俺だけに見せてよ、あず」
 そういって私の頬に手を触れると、そっと撫で上げた。優しくて、繊細で、でもそれだけでは済まされない何かを潜んだ手の動き。俊成君の目は細められ、真っ直ぐに私を見ている。そんな彼の表情を見ていたら、荒々しいまでの欲望が自分の中に渦巻いた。

 俊成君に、抱かれたい。私に触れて。もっと近付いて。

 体の奥のほうで熱がこもる。せつないうずきが下半身に起こっていた。
 好きって気持ちだけではもう足りないんだ。心だけじゃなくて、体だって俊成君を求めている。
「好きなの。俊成君のことが。だから……」
 けれどせっかく勇気を出したのに、それ以上がいえなくてぎゅっと目をつむった。恥ずかしくって、死ぬんじゃないかと思った。緊張とか羞恥とか、あとやっぱりこれから起こることへの恐怖とか。そんなものに支配されて、自分の欲望を素直にさらけ出すことが出来ないでいる。
 体をこわばらせて黙っていると、俊成君の腕が回りこんで急に抱きかかえられた。
「うわ。あ、あの」
 そのままベッドに運ばれて、ゆっくりと下ろされた。
「電気、消す?」
「え、あ、うん」
 妙にてきぱきと事を進める俊成君にびっくりして、ぼんやりと目で追った。照明が落とされるけれど、電気ストーブの明かりで部屋の中が完全な闇になることは無い。俊成君は私に近付くとそっとキスをして、耳もとで囁いた。
「大切にするから」
 その言葉と共に、私は服を脱がされていった。