二人の会話

第三部  二人の会話


その9.5

「ただいまー」
 そう言いながら奈緒子が玄関を開けると、すでに待ち構えるように立っていたコロがワンと吠えた。宮崎家では当たり前の、家族の誰かしらが帰れば繰り返される光景。
 コロを一撫ですると、リビングをのぞき込む。そこでは母がお茶をすすりながら、のんびりとテレビを見ているところだった。
「ただいま」
「お帰りなさい。ご飯は?」
「食べる。お腹空いちゃった。今日のおかずって、なに?」
 聞きながら、答えを待つことなくテーブルを見る。
「アジの干物にカボチャの煮つけ、お味噌汁。A定食だ」
 これは宮崎家の暗号のようなもので、ちなみにB定食は野菜炒めになっている。
「ちゃんと手を洗いなさいよ」
「分かってるって」
 味噌汁を温めるため鍋を火にかけ、その間に洗面所に行こうとし、そこでようやく思い至って奈緒子の動きが止まった。
「二人分残っているけど、お父さんも食べるの?」
「お父さんは今日遅いわよ。歓送迎会あるって言っていたから」
「じゃ、これあずさの? 出かけているんだ」
 最近、家にこもりがちだった妹にしては珍しい。
 すぐ近くに住む幼馴染の俊ちゃんと、ケンカをしていた。地方の大学に行くのを教えてくれなかったらしい。本人は否定していたけれど、それだけで切羽詰った顔をして落ち込んでいた。姉としても今後の二人の行方が気になるところだった。
「気分転換でもしてもらわないと、鬱陶しいからね」
 そうつぶやきながら、お新香をつまむ。
「行儀悪いわよ」
 お茶を注ぐついでにテーブルに移動してきた母に、たしなめられた。
「はいはい」

 手を洗って戻ってくると、ご飯と味噌汁がよそられていた。いただきますと小さく言って、食べ始める。母はそのまま奈緒子の前の椅子に座り、何とはなしに新聞を読んでいた。
「で、あずさどこに行ったの?」
 活発な姉である自分に比べ、妹のあずさの方はおっとりしているというのか、若干引き気味な性格をしている。夜遊びもそうそうする娘ではないのに、八時をとうに超えているというのに帰ってきていない。母が悠然と構えている以上、まだ奈緒子が心配するほどの時間ではないが、妹がどこに行っているのかは気になった。
「倉沢家」
 新聞から目を離さず、あっさりと母が答える。
「倉沢家? 俊ちゃんのとこ?」
 思わずお箸を置いて聞き返してしまう。気分転換どころか、直接ぶつかったのだと考えると興味がわいた。
「なんで? どうして行ってるの?」
「カボチャをね、届けに行ってもらったのよ」
「カボチャ」
 つい目の前の、A定食の真ん中にでんと出された盛鉢を見つめてしまった。
「これ?」
「奥さんに渡してもらおうと思って」
「俊ちゃんじゃなく?」
「だってあの子、ケンカしていたでしょ。俊ちゃんに渡せって言っても、嫌がるの分かっていたし。だから、俊ちゃんいないから奥さんに渡してって」
 表情を変えるでもなく、当たり前のように説明する母。けれど奈緒子の目は細められ、口元には中途半端な笑いが浮かび始めていた。
「俊ちゃんいないって、なんでお母さん知っていたのよ」
「今日は合格発表の日よ。俊ちゃんが見に行くって、事前に聞いていたもの」
「合格したの? 俊ちゃん」
「したわよ。だから持って行きなさいってあずさに言ったの。いつまでもケンカしていても仕方ないでしょ」
 やっぱりおばさんに、じゃなくて俊ちゃんに、だったんじゃないの。
 そう言いたい気持ちを抑えて、奈緒子は中断していた食事を再開した。
 その柔らかい雰囲気で、人の良さそうな印象を受ける母だが、結構な策士である事を奈緒子は感づいていた。娘が一生懸命秘密にしていた出来事を、当たり前のように母が知っていたことなんてざらにある。母親なんてみんなそんなものかとも思うのだが、特にこの母の場合、何を考えているのか娘には読めない節があり油断が出来ない。
「で、俊ちゃんいたんだ」
 普段なら食事中でもテレビの音がないと寂しくなる奈緒子だったが、今日は不思議とうるさく感じられた。多分興味が母の話す妹のことに行ってしまっているからだろう。リモコンでテレビの電源を切ると、また話を振ってみる。
「そうね。うちに来たから」
「うち? うちって、ここ?」
「あずさにカボチャもたせて行かせたら、しばらくして俊ちゃんが来たの。あずさは帰ってきてますか? って。ちょっと慌てていたみたいだったけど。入れ違いになっちゃったのかしらね」
 そう言いながら、ようやく新聞から目を離し、お茶を飲む。そんな母の落ち着いた姿に何かを感じ、奈緒子は慎重に聞いてみた。
「それって今さっきの話なの?」
「ううん。6時過ぎくらいかしらね。それっきり、あずさも帰ってこないし俊ちゃんも来ないから、多分倉沢家にいると思うんだけど」
「そう」
 短く答えると、奈緒子は自分の表情が読まれないように視線を落とし、魚をほぐすのに熱中する振りをした。
 付き合っていないのが不思議なほど、お互い好きあっているのがよく分かる、幼馴染の二人。それが一方の都合で離れて行く。今の話しでいくと俊ちゃんもようやく踏ん切りがついたのか、かなり切羽詰っている感じだ。
 あずさのことだから、おばさんがいると思って倉沢家に行き、本人が現れて逃げ出してしまったとかそんなところだろう。家にこの母が控えているから、素直には帰れない。結局戻ってきていない事を考えれば、公園あたりで俊ちゃんに捕まえてもらったか。
「ごちそうさま」
 気が付けば目の前のおかずはすべて食べつくしてしまい、満ち足りた気分になっていた。もううつむく理由になるものは何もなく、それでも沸き起こる微笑を隠すため、ゆっくりとお茶を飲む。
「俊ちゃん、いい男になったよね」
 ついうっかり、つぶやいてしまった。
「あずさがちょっとうらやましいわよね」
 くすりと笑っていう母の顔が、妙に優しい。
 あれだけ結びつきの深い二人なのにもかかわらず、なかなかお互いの気持ちを確かめ合うこともしないでここまで来た。けれど、俊ちゃんがここから出て行く日も近い。この状況ですぐには帰ってこないとなると、大体のことは想像できる。
 
 分かっているのかな?
 
 そっとうかがうように目の前の母の顔を見つめてみた。
 というか、俊ちゃんの話をふったのに当たり前のようにあずさの話にすりかわっている時点で、全部分かってはいるんだろう。
 奈緒子は、音をたててお茶を飲み干した。
「あら、こんな時間」
 ふいに気が付いたように、母が時計を見る。気が付けば、もう九時を回っていた。
「食器片付けるとき、あずさのおかずも冷蔵庫にしまっちゃっていいわよ」
「あ、うん」
「お風呂やらなくちゃね。どうせあの子も帰ってきたらすぐ入るだろうし」
 
 お母さん、それって……。
 
 突っ込みたいけれど、言葉に出したらおしまいだと分かっているため無言になる。反対に父は思ったことが口に出てしまうタイプなので、こういうときは気が楽だ。
 妹のことなのに妙に自分がどきどきしてしまい、それから逃れるように奈緒子は立ち上がった。
「じゃあ、片付けるよ」
「お願いね」
 母の言葉を背中で聞き流し、片付けに取り掛かる。
 冷蔵庫の中、いかに残り物を詰め込むかが問題だ。パズルを解くように目の前の冷蔵庫に意識が集中する。その瞬間、ぽんと母が聞いてきた。
「それで奈緒子、あんたの旅行っていつ行くって言っていたっけ?」
「え?」
 一瞬、何を聞かれているか分からず動きが止まる。
「あ、来週。来週の木曜日」
 思い切りびくついてしまい、そんな自分に気が付いて奈緒子は焦った。
「あの、メンバーは大学のサークルの子達だからね。男五人の女が六人っていう、中途半端な数の」
「聞いたわよ、それ」
 くすくすと笑いながら母が立ち上がる気配がした。
「さ、お風呂やっちゃおうっと」
 完全に母がいなくなった事を確認してから、奈緒子は思わずため息をついた。
 
 お母様、怖すぎです。

 サークルの旅行で男女合わせて十一名なのは本当だ。しかしその中に、家族にはまだ内緒の自分の彼氏が含まれている。だからどうといった話なのだが、すべて見透かされている気がして必要以上にびくついてしまう。
「まあ、いいんだけどね」
 次第にこらえきれなくなってきた笑みを浮かべ、奈緒子は食器を洗い出した。
 次はあずさが、母の言動に焦る番だ。
 もうしばらくしたら、家族と目を合わせることも出来ずにこそこそと帰ってくるのだろう。
「頑張れ」
 目前の母への対応と、これからの四年間。そのどちらにも使える励ましの言葉を、妹に向けてつぶやいた。
 
 玄関でカチャリという音が聞こえ、コロが嬉しそうに吠える声がした。


- 終わり -