君に逢いに行く


■おまけ話 その2「本場」
 

「だぁぁぁー、もう駄目!」
 そう叫ぶと、私はヘッドフォンを投げ捨てた。そのまま机に顔を突っ伏す。
「荒れてるね、保奈美」
 どこかのほほんとした口調の声が、背後からする。婚約してからすっかり我が家に入り浸るようになった、直輝だ。
 また断り無く勝手に人の部屋に入ってきた。
 抗議しようと顔を上げ、今の状況にはっとする。この無造作に広がったテキスト類。見ればすぐにバレてしまう。
「初級ドイツ語講座。すごい! ちゃんと来年に備えて勉強しているんだ」
「ええ。それはまあ」
 抵抗することなく、ただし地を這うような低い声で、答えてみた。
 だって五年間ですよ。来年から五年も異国で暮らすの決定しているというのに、何の準備もせずに挨拶一つ出来ない状態でなんて、行きたくないでしょ。
「で、教材を買って聴いてみて、しょっぱなでつまづいているんだね」
 にっこりと、妙に嬉しそうな笑顔で直輝がとどめを刺す。
「私、あんたのそういうところが嫌い」
 いつの間に、こんな子に育っちゃったのかしら。
 苛立ちを抑えることなくにらみつけると、直輝はそれすら楽しいようで笑い声を立てた。
「色々と大変そうな保奈美に、手土産買ってきたよ。はい、アイス」
 コンビニの袋をがさりとさせて、直輝はカップアイスを取り出す。
 金の蓋に赤地のボディ。これは、
「ハーゲンダッツ! こんな高いの、どうしたの」
 学生で現金収入が家庭教師のアルバイトくらいで、しかも今後貧乏な留学暮らしが待っている直輝にとって、これはむちゃくちゃ高級品だ。
「贅沢できない俺が、精一杯の気持ちを込めて買ってみました」
 そう言って蓋を開け、スプーンで一口すくうと私に差し出す。
「はい」
 って、ちょっとそれ、恥ずかしくない?
 抗議したいのに、真っ直ぐこちらを見つめるから、なにも言えなくなってしまう。
 まあいいか。と流されて、ぱくりとスプーンをくわえたら、また楽しそうに微笑まれた。
「なんか餌付けしている気分」
 確かに。
 否定はできないので、直輝を見つめたままアイスクリームを堪能する。このまったりとした濃厚さ。さすがハーゲンダッツ様だ。
 幸福感に包まれて目を細めたら、直輝の顔が近づいた。あ、と思う間も無くキスをされる。
「ちょ、ちょっと!」
「味見しただけ。これ以上は後の楽しみにとっておくからさ、とりあえず勉強続けよう」
 なんだか不穏な言葉を吐かれた気がするけれど、実際にテキストを広げられるとなにも言い返せなくなる。
「で、どこでつまずいていたの?」
 そう聞きながら、直輝は私にアイスを与えてくれた。一口食べて例題を読み上げ、そしてまた一口。

 アイスにつられ、気が付けばそれなりにドイツ語学習ははかどっていた。さすが現役の学生は違う。こんなに真剣に勉強したのなんて、久しぶりだ。
「直輝、そろそろ休憩」
 げっそりとしながら手を上げると、直輝が確認するようにテキストをめくり、それからうんとうなずいた。ようやくのお許しだ。やったー。
「まだまだ挨拶もままならない。道のりは長いね」
 伸びをして、遠い目をしながらつぶやくと、直輝にきゅっと抱きしめられた。
「保奈美には悪いけれど、でも俺と暮らすためにがんばっているんだと思うと、俺は嬉しい」
 私のうなじに顔をうずめ、しみじみとした口調で言ってくる。抱きしめられているだけでどきどきしているのに、そんなこと言われたらどうしていいのか分からなくなってしまう。
 胸の奥が甘くうずくような感覚が恥ずかしくて、私はそっけなく返答することにした。
「それはどうも」
「保奈美、冷たい。ドイツに行くの、嫌?」
 そうきたか。
 これを聞くときの直輝は、いつも決まって不安そうな顔になる。自分の道を決めたときには真っ直ぐに進んだくせに、私のことになると、途端に弱気になってしまう。
 まあそれも、仕方ないか。
 私はくすりと笑うと、直輝の鼻をつまんだ。
「嫌ならこんな自主的に勉強始めないわよ。先に行ってしまう春までに、せいぜいみっちり仕込んでよね、直輝センセイ」
 その言葉に直輝は安堵の笑みを浮かべ、それからハーゲンダッツの空容器に視線を移した。
「これの本場で、保奈美のこと待っているから」
「これの本場?」
 意味が分からず聞き返す。
「ハーゲンダッツ。ドイツでしょ? 違うの?」
 眉を寄せ、いぶかしい表情で問いに問いを重ねてくる。私はやれやれと肩をすくめると、体をずらして直輝に向き直った。
「ニューヨークが本店です」
「え。俺、ずっとドイツが本場だって思っていたのに」
 とんでもないことを聞いてしまったと言わんばかりの表情で、つぶやく。
「本場がどこかは分からないけれど、大体、ハーゲンって言ったら普通はコペンハーゲンでしょ。ドイツじゃないと思うよ」
「だって、名前にウムラウトが付いているだろ」
 ウムラウト。ああ、あのAの頭についているちょんちょんとした飾りのことね。
 テキストを横目で見つつ、納得した。けれど直輝がなぜここまでショックを受けているのかが、分からない。
「そんなにドイツでハーゲンダッツが食べたかった?」
 素直な気持ちで聞いたのに、なぜか直輝はむっとした表情になってしまった。
「別に俺が食べたいわけじゃなくて」
 そこで言葉を切ると、ぷいと横を向く。
「ドイツに来てよかったなって、保奈美がアイス食べるたびに思ってくれればいいなとかさ」
 次第に視線が落ちてきて、ぼそぼそとした口調になってゆく。
「なんかそういう具体的なのが一つでもあれば、俺だって嬉しいし」
 完璧に拗ねた口調。でもそんな理由で拗ねられたのなら、こちらとしてはただもう嬉しくなるだけしかないわけで。
 私は直輝に頬を寄せると、そのまま彼のうなじに顔をうずめた。
「保奈美」
「たとえアイスの本場でも、直輝がいなかったら私は困るよ」
 だから、アイスがなくても大丈夫。
 そんな気持ちで、ぎゅっと抱きつく。耳元で直輝の吐息がして、強く抱きしめ返された。
「保奈美が来るまでに、美味しいアイスクリームを探しておくから」
 あ。
 せっかく、アイスが無くてもいいって決心したばかりなのに。直前の決心が、あっという間に崩れてしまう。
 それがなんだかおかしくて、くすくすと笑ってしまった。

 こうやって、来年の春以降の二人の生活を待ち望むのも、いいなと思った。


■本編「君に逢いに行く」 →